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新型コロナウイルス問題について、弱者の感じる絶望を語る

 新型コロナウイルスの世界的大流行が問題になっています。一時的な、だが結構深刻な経済的被害を覚悟してでも人々の行動を抑制し徹底的に抑え込むべきなのか。それとも、若者はほとんど死なず亡くなるのは高齢者ばかりなのだから、経済活動を止めずに流行させ集団免疫を獲得することを目指す(通称ノーガード戦略)べきなのか。
「徹底的に抑え込むべきだ」派は、それに成功した国(グリーン国)と失敗した国(レッド国)では、今後相互交流が絶たれ、世界の経済圏は二分されると言われています。グリーン国同士、もしくはレッド国同士でしか貿易や人の行き来ができなくなる、主にグリーン国側の拒否によって、ということですね。

 抑え込み派には、ノーガード戦略派側はいずれ医療崩壊し、遅かれ早かれ抑え込み派のとった戦略(徹底的な外出禁止)をする状況に追い込まれると言ってる人も居ます。目先の経済的な損失を恐れ、結果としてより甚大な損害を受けるとも。

 結局どちらが正しいのか? 自分は正直言って、よくわかりません。ですがこの現代のグローバル化した人類社会にとって、どちらであってもそれがとんでもない危機であるのは、間違いありません。
 そしてどちらの戦略を取られても、弱者は切り捨てられて終わりなんだろうなと言う絶望を感じるわけです。

 自分は普段から「ベーシックインカムを導入すべきだ、いざとなれば生活保護を躊躇なく申請すべきだ」と言っています。「それくらいの余裕が社会にある」という前提があればこそです。食糧生産、工場の稼働率、全てから見て、今の人類社会には十分に全人類を養う余力が有る、それが上手くいってないのは、分配が下手なだけだと。
 ですがこれは実際にそれだけの生産がしっかりなされ、社会が豊かであればこそです。もし社会自体が貧しくなり、誰もが自分が生きるのに必死にならざるをえなくなれば、他人に分け与える余裕など無くなります。

 抑え込み派の言うように皆の行動や経済活動を抑え込んだとしましょう。その結果経済はそれなりの被害を被るはずです。噂されてるドイツ銀行が破綻したら、経済面だけでもリーマンショックを超えるかもしれないと言われてる。そうなれば社会福祉に回されるお金はまっさきに削られるでしょう。

 ではノーガード戦略を取って、感染を蔓延させ、流行させるとします。医療崩壊が起きるか起きないか、実際どういう結果になるかはわかりませんが、これをすると確実に高齢者はいままで以上に多く亡くなります。すでにイタリアでは60代以上に人工呼吸器を使わない、若者だけに使うという選択が実行されています。イタリアという先進国で高齢者が切り捨てられる姿を目の当たりにしてるわけです。
 ですがおそらくそのイタリアでも、富裕層は金の力で私立病院などに上手く入り込んで、人工呼吸器や人工心肺を使えてるのではないでしょうか。そもそもそれ以前、流行が蔓延する前に、どこか遠い南の国や島の高級なホテルや別荘に逃げ出しているのではないでしょうか。

貸別荘では、「先月(2020年1月)中旬から予約が増え始め、去年(2019年)の同じ時期に比べ4、5倍以上」と話す。

 テレビでやってたニュースでは、この予約は2週間〜月単位の長期だという話もしていました。
 お金のある富裕層には、こういう選択肢があるわけです。しかしそんな選択の出来ない人、高齢者は、今住んでいる地でじっと嵐が過ぎ去るを待つしかありません。

 災害などで病院があふれそうになったら、医師はトリアージと言って、助かりそうな人を助け、普段なら助けられるかもしれないけど状況的に難しい人は切り捨てることを余儀なくされます。
 今の社会は、いわばこのトリアージを社会的にどうするかを問われてる状況と言えるわけです。抑え込みをして経済的損失が莫大になった時、社会福祉で生きる弱者をどう処遇するのか。ノーガード戦略を取って感染が爆発的になった時、お金の力ですでに人工呼吸器を確保したり逃げ出したり出来ていない弱者をどう処遇するのか。

 こういう事態に直面すると、いかに弱者が社会的余力に助けられてきたかを実感します。
 そして、社会的トリアージを自分に迫られた時、果たして自分は社会が助けるに値した人生を送ってきたのか、それとも切り捨てられる側になるような人生を送ってきたのかを、改めて考えさせられるわけです。

 ツイッターで以前、百姓一揆の話をしたことがあります。米を貯め込んだ商人のところに押し込み、「蔵に米があるだろう、出せ!」と迫る。
 でもそれは、その蔵に米があるから言えることです。もし蔵が実際に空っぽなのであれば、何も言えません。商人家族が生きる分しかない場合も、それを奪うことは出来ないでしょう。
「無い袖は振れない」のです。袖が有るなら振れと言える。だが無いなら、振ろうにも振れません。

 内部留保を貯め込んできた会社は「ほら見ろ、こういうときのために貯め込んだから、我社は生き延びることが出来たのだ。嵐が過ぎ去った後は、また同じことが起きたときに備えてもっと貯め込むぞ」と言うでしょう。富裕層は「自分が貯め込んできたお金のおかげで助かったり、逃げ出すことが出来た。やはりお金は大事だ。もっと節税に励み富を溜め込まねば」と思うでしょう。
 これまでの歴史において格差の解消には戦争・革命・災害・疫病が有効であると言われてきたようです。たしかに大地震があると、その瞬間においては、貧富の差など関係ありません。掘っ立て小屋も豪邸も、津波の前では等しく被害を受けます。ですがもし、自家用ヘリコプターを敷地内に持ってるような金持ちであれば、すぐに逃げ出せてしまうんですよね。
 科学技術の発達は、かつては格差の解消に効果的だった災厄が起きた場合においても、富者に有利に働くようになってしまったと言えるでしょう。映画「2012」において、全地球的災厄から逃れるためのノアの箱船に乗ることが許されたのは、社会的に生き残ることに価値があると認められた優秀な人々と、お金持ちでした。そのどちらにも入らない庶民は切り捨てられたわけです。

 実際のところ、新型コロナウイルスがこれからの経済や社会のあり方にどれだけのダメージを与え、社会がどう変わるのか、現時点で予想するのは難しいです。ですが確実に言えるのは、どう転ぼうとも、これまで弱者を助ける余裕のあった社会はその余裕を失い、結果として切り捨てられる弱者は増えるだろうということです。
 景気が悪くなれば自殺者は明らかに増えます。病気が蔓延すれば、年齢なり経済力なりでトリアージされ切り捨てられます。

 自分の自己責任論に対する持論は「自己責任とは人が他人を救わない理由づくりのために押し付けるものではない。その人がその状況に陥ったこと、それ自体がもう自己責任を果たしてることになるのだから、他人があれこれいうものではない」というものです。ですが実際に社会が経済的に落ち込む、病気が蔓延する、その結果として実際に自分が「救われない」なら、それは自己責任論以前に、その状態に陥ったことで、自己責任を果たさざるを得ないのでしょう。

 自分は普段から「なにかあれば生活保護を申請すればいい」と言ってます。ですが事態がこうなってしまうと、実際になにか起きたときに生活保護を申請し、もらえる社会の豊かさが維持されていてほしいと願うくらいしか出来ません。自分は金の力で自力救済できるような蓄財が出来ておらず、また、社会の側がこの自分を生かすことが社会のためになると感じてくれるような自己研鑽や、人脈づくりに励んでこなかった。これは認めるしかないことです。今まで生きてこられたことがラッキーなのだと言うしか無い。
 これが自己責任というものの現実なんだなと、弱者を自覚する身としては、嘆くことしかできません。
 社会的、医療的、どちらにせよ自分というのは、トリアージをされる側の人間であることを自覚せざるを得ない状況を想定するしかない社会になってしまった。科学技術が発達し、AIや機械が人間の労働を奪う技術的失業が進み、その豊かさが極まってシンギュラリティ(技術的特異点)を社会が迎えるはずだったのに、疫病でその到達点が遠ざかってしまった感じがあります。その間隙に落ち込んで死にかねない状態になってしまった。
 泣きたくなりますね。

 奇跡的にこの状況を生き延びることが出来たら、今後どう生きていくかは、またその時に考えたいです。

 以下、特に文章はありません。投げ銭していただける方がいらっしゃいましたら、ありがたくお受けします。ありがとうございます。

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