watashiという名の大冒険
今日会社で上司の健さんと、こもトークという動画の撮影をしました。
社員のあんなこと、こんなことを健さんにお話ししてみるシリーズですが、思えばわたしも今の会社にやってきて10年になろうとしています。
あっという間だけど濃い、短いようで長い、それが10年。
投資信託の会社で、やれることはなんでもやってみた、まさにそんな10年でしたが、思えばわたしという人間が、投資信託の会社に来たこと自体が自他共に驚く大冒険でした。
何しろ、その前は、専業主婦を3年。
そして、その前は、テレビ業界に10年。
わたしのイメージには金融の「き」の字もありませんでしたからね。
そしてそして、その前は、アメリカに留学しようと思っていたのにブラジルに留学することになったり。
そしてそして、転勤族の娘として育ちましたので、小学校は3つ通いましたし。
新しいところを旅するのは思えばわたしの天命みたいなものだったのでしょうかね。
結婚生活自体も大冒険の連続でしたが、そのことはおいおい書いてみることにするとして、今日のこもトークで、テレビをやっている時の話をしていたら、案外いろいろ面白いことやっていたな〜〜〜と楽しくなっちゃいましたので、まずはみなさんにその頃のことからお話ししてみることにいたしましょう。
そもそもなぜ、テレビだったのか・・・
大学に入ってすぐ、自分がテレビ番組出るっていう経験をしたんです。
大学生活で何か新しいチャレンジしたいな〜と思って、TBSの日曜日の朝にやっていた、若者が世界の各地でいろんなチャレンジや経験してくるっていう「地球ジグザグ」っていう番組に応募してみたら、あれよあれよと受かっちゃったんです。
で、明後日から君、フランス行って来てくれる?
って、テレビ製作会社さんからのご連絡。
この国行ったらわたしはこんなことしたい、あんなことしたいって随分とあれこれ適当に企画書を書いて送りつけていたのですが、その企画の中に、「シャンゼリゼ通りに行ってフランスパンを持って歩く」みたいな夢を書いていたんですね〜。当時流れていた、ネスカフェのコマーシャルに憧れていたんですよ。
じゃ、それかなえてきてってことで、パリのパン屋さんに修行することになったんです。
ずいぶんと有名なパン屋さんに1週間修行させてもらうことになったんですけど、いや〜〜〜自分を撮影されるっていうのはなかなかけったいな経験でしたね。
工事中の部屋をあてがわれたんですけど、朝、起きて、シャワーを済ませてピンマイクを装着すると、とんとんとんって、ドアをノックする音。
カメラマンが無言で入ってきて、撮影が始まるんです。
で、わたしが道を間違えたり、地下鉄乗り間違えたり、パンがうまく焼けなくてかちんこちんのパンが仕上がったりしても、とにかく、ひたすら撮影されているわけです。
なんだか勝手に頭にきて、そう都合よくは、独り言とかつぶやかないぞ、とか変な意地をはってみたくなる中で、結局最後には、めでたく、伝統的な田舎パンを焼き上げることができました。
そして、シャンゼリゼ通りもそのパンを手に歩けて、憧れてたネスカフェの宣伝みたいな世界を味わえたわけですが、スタジオで観た「わたしのパリでの経験」はもはやわたしのものではありませんでしたね。
わたしにとって一番心に残ったシーンはそこにはなかったりするわけで、あ〜〜テレビ番組は作り手のものなんだな〜というのが、わたしのその時の気づきだったりして、じゃ〜出るより、作る方がやりたいよね〜〜〜と、深いことはあまり考えずに、その頃からぼんやりとテレビの番組制作会社に入ることを考えるようになるわけでした。
テレビ局を受けるっていうのには、あまり興味がなかったんですよね。
もしかしたら、製作以外のところにいってしまうかもしれないでしょ?って思っていたんです。広報とか、営業とか。
それに、当時、テレビ業界にいくための勉強会なんていうのがあって、行ってみると、そこには、フジテレビでまだ働いてもいないのに、フジテレビっぽい学生とかいて、なんだかかゆくなるというか、ややドン引きしてしてしまうというか。
で、製作会社ってどんなところがあるのかな〜って調べてみることにしたんです。
そう、バブルがはじけたばかりの時代。
わたしが大学に入ったころには、先輩たちは、寿司やらうなぎやらご馳走になっていて、あ〜わたしもそんな時が数年後にはくるんだね〜と思っていたら、それがまったくこなくて、4年の頃は木枯らしびゅーびゅーでした。
4年生の大学までいって、なんでうちで事務職なの?っていう空気だったり、う〜〜む、総合職なら、やっぱり東大京大じゃないとね〜〜〜みたいな、はい、木枯らしびゅーびゅー。
そんな中、なんの迷いもなく、やっぱりテレビ番組製作会社を受けることにしていました。
憧れていたのは、わたしが出た「地球ジグザグ」の製作会社 テレビマンユニオンでしたが、そこにはあっさり落とされました。
テレビマンユニオンって、あの是枝監督がいた会社です。
で、当時のプロデューサーさんに、あのね、出るのと作るのは大違いだよ、大変なんだからね、って、あっさり、ばっさり。
う〜〜〜〜〜む、じゃ、わたし、どこいこう。
って受けたのが、日本テレワークっていう会社でした。
この名前、、、、そしてロゴも、、、、
なんだかちっとも憧れることのできないデザインで、、、
作っているものも、自分がやるぞ〜って思っていたドキュメンタリー色が強いっていうよりは、バラエティーとか、情報番組とか強いような、そして社長のキャラも濃すぎてびっくりみたいな。
説明会では、ここはぜったいないね〜〜〜〜と思った会社だったのに、力試しで受けたらどんどこ進んで最終面接。。。
「あなたみたいなお嬢さんがくるとこじゃないよ」なんて、脅し文句いただけるあったかい最終面接にも無事合格しちゃって、さあどうする?って感じでしたが、とんとんとんって進むことには意味があるよねって、ことで、なんとその会社に入ることに決めたのです。
もうひとつ最終まで残っていたドキュメンタリー思考の強い会社と悩みはしたのですが、その社長さんっていうのが言うことすべてが立派で、そこに入ったら、わたし、一生、うんうん、そうですね、ってうなづいて暮らしそうだなって思いまして、これは視野を広げるために、ぜんぜん自分じゃあこがれない会社に行こうって決めたんです 笑
そうなんです、常に、わたしにとって大事なことは、視野を広げるってことだったんですね〜。
ってところで、入ってからのことはまた次回。
お楽しみにされてください。
つづく 笑
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