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神戸分析心理学クラブ主催の公開対談「ユング・イン・アフリカ」(大塚紳一郎×磯野真穂)

お二人の話を聞いて、他者との出会いを考えた。

大塚さんに教えてもらったユングで言うところの「集合的」な心のあり方を考えると、私たちは常に出会い続けてるんだろうと思う。

ユングは心を「集合的」なものと考えた。意識・無意識だけでなく、純粋に個人的なものではない(“日本人として″のような意識など)ものの集合で心は構成されている。

私たちは毎日、通りすがって顔も見てないような他人と出会い続けている。
たとえ出会ったことさえ覚えてなくても、すれ違う人たちがどんな人なのかっていうことは、心のどこかに蓄積されてく気がする。
毎日どんよりした顔の人とばかり出会うのか、にこにこ顔の人とばかり出会うのかは、それを覚えてなくても、無意識の中に蓄積されて、全然違った形で現れてくると思う。
だから、ある意味では、私たちは他者と出会い続けてるんだと思った。

講義の主題は、自己変容を伴う他者との出会いにあった。
アフリカを旅したユングは、他者を記述する人類学者は、果たして他者と出会えているのだろうか、という。

アフリカの現地民の祈りの儀式について理解ができなかったユングは、「朝日が登るときに唾を両手に吐き、その手を朝日に掲げる」という彼らの祈りに参加した。そこで、それまで教会に行くことさえなかったユングを「ついにわたしは教会に辿り着いたのだ」とまで言わしめる圧倒的な体験をしている。
この体験をきっかけにユングは大きく変容し、「象徴を生きる」ということを主眼に置いた生き方について考え始めたのだった。


ここでユングは他者と出会えたのかというと、よくわからない。「朝日の美しさ」という自然体験を現地民と共にしただけのようにも思える。
「他者」って言われると、どうしても「個人と個人の関わり」をイメージしてしまう。ここで自己変容を伴う個人との関わりがあったのかはよくわからない。
でも、そもそもユングが個人にとっての他者ではなく、集合的な心を考えるための他者を求めていたのであれば、自分とはまったく異なる文化や信仰との出会いは、確かに「他者」との出会いと呼べるかもしれない。

「他者との出会い」が「自己変容」とともに語られるのはおもしろい。
社会における役割遂行や、日々を円滑に過ごすための関係構築、社会的な欲求などの諸々を横に置いても、「他者と出会いたい」と思う気持ち。それは往々にして、他者からぐるっと矢印を変えて自分に向かっている。
他者との出会いを通じて、自分を知りたいし、これが自分だと思う枠組みを揺らしたい。できるのであれば、揺れた枠組みから外にはみ出たい。
人は結局、自分がおもしろいし、自分に興味があるし、なのに自分でないところに身を置いてみたい生き物なんじゃないかと思う。

だから、人類学者のジェイムズ・クリフォードによって「人類学者は他者と出会っているつもりで、実は他者の記述を通して自分自身と出会っている。エスノグラフィは他者ではなく、自分の描きたい世界を書いただけの単なるフィクションである」と辛辣な批評をされた(writing culture shockといって人類学界に激震を与えたらしい)という話を聞いても、わーそうだろうなぁと。
そこから変容せざるを得なくなって、エスノグラフィにさまざまな工夫を凝らす人類学者の話は愛おしくておもしろかった。

こんなにも自分の枠に囚われながら、それでもその外にいるのであろう他者と出会いたくて、もがいてる大人。
考えるだけで愛おしい。
それは、他人事ではなくて、もがいているのはわたしだけではないんだという光でもある。

お二人の対談はシリーズ化しそうなので、これからも楽しみ。

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