臀部と私

具体的になんと言われたか忘れたが、さ◯にゃむが
・臀部に触って良いという許可(私が頼んだわけではない)
・臀部を褒められるという旨
この2点を話に含めたよう記憶している。

「臀部というのはそりゃ、触り心地の良くない臀部をしている人間の方が珍しいんじゃないすか?触るまでもなく、感覚は想像つくし、触らないでいいです。」みたいなことを言おうとして、思いとどまった。臀部に触れたいかはさておき、さ◯にゃむに部位指定なく触れたいとは思っているし、臀部に触れたくないというわけではなく、またここまで明文的に示され臀部に違和感なく触れることができるお膳立ての整った機会はあまりないかとも考え、それならば触れておくべきではないかと思った。そして触った。

海。

海のようであった。
グレイの空の下、人間を無視してただそこに存在だけを標榜するようなネイビイの海だというか。またはボツボツと生えた麦畑があたり一帯、乾いた風に吹かれてるようでもあった。あるいは月や蛍の持つ温度のない光のようでもあった。「良い尻」なんて聞くと大きさだとかハリだとか固形を示すようであるけれど、彼の臀部というのは、海とか風とか光とかの類、液体的な、輪郭のないピアニッシモな静謐さを持つのであった。しかし繊細だとか細工品のようだと形容するのも間違っていて、木製くらいの手応えはある「尻」であることも認められたから、非常に不思議な心持ちになった。ヘミングウェイの「老人と海」という作品を私は一切読んだことが無いのだが、「老人と海」のことはグレイの空とネイビイの海に佇んで目を細めて水平線を見ている老人の話ではないかと妄想していて、恐らくこれがそれなのだなと思った。さ◯にゃむのケツを触ることで、”あの”老人が観た海を私もまた観たのだ。ぼうぼうと吹く海風が私の顔全体に湿気を叩きつけ、己の髪の毛が風に煽られて顔全体にまとわりついた。そんなことらは御構い無しに、私は必死に風の中で目を凝らし、作中に老人の目線の先にあるであろう物が一体何であるかを辿ろうと試みた。それで海と異なるのは、海は寄せては返すものだが、私の手はしばらく尻の海から帰ることがなかった。

「ね?」

「確かに。」

夢中で2、3揉みしたあたりで声をかけられたので、乖離した意識を統合しながらさ◯にゃむ:ヘミングウェイを4:6で褒める返事をした。そして触るのを停止し、意識を完全に統合した。好きな人と一緒に過ごすのに、ヘミングウェイの描いていない謎の小説に気を取られるのは意味不明だからだ。臀部そのものの評価に関しては、そもそも他人の臀部に触れる機会が無いから、良いとも悪いとも言えない。ごくふつうのトランクスで覆ってしまうには勿体無い尻を携持する男ことさ◯にゃむを好きなのは依然として同状況だと思う。

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