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いつか願うわ ぼくじゃない幸せを

あぁクヨクヨしている。そしてその感情を文章に残そうとしている自分がいる。この前書いたnoteに一言。生き急いでんね。ひしひしと今もこの書いている文章は生き急いでいる。明らかに余裕がない。きっとそれは心にも余裕がない。今年に入ってからのnoteをさっき読み返してみた。1〜3月までは1人暮らしをしていた。人生初の。その時の文章は全てどこか幸せが溢れていてゆったりしていてどうぶつの森でいう「おいしい果物」を食べた時のキャラの動きみたいな雰囲気よ。周りに華巻いてる。


試しに1人になる時間を強制的に生み出してみる。自分は散歩をする間が1番楽だ。だからその時間を無理やり増やそう、そうするしかない。1人暮らしの時はどう考えても誰とも話さず1人で生きていたのに、それでも1人の時間が欲しかった。それは毎日4時間以上にに及ぶ決まったコースの散歩だった。その時間があるから、同じことを繰り返す故のあぁ今日を進んで今日を迎えたんだという生き心地、実感を得ていた。その道中にはちょいちょい自然があって、その中をひたすら進む時間もあったりなかったりした。顔に木の葉が触れたり雨粒がつむじの2歩隣に着こうとしたり。今も、それを欲しているのだ。



多分前回までよりもまだ、生き急いでいる感じの文章には読めないと思う。接続詞とか、雰囲気とか沢山無理矢理引っ張ってきた。

今こんなわかりやすく生き急いでいるのか、?多分じゃなくても何も自分に目標がないからである。だからまたこんな3時にイヤホンで大音量で若い感覚に刺さる音楽を聞いているのだ。好きな人も居ないのに。自制してるだけなのかも知れないが。多分じゃなくてもこのnoteを読む人間に知り合いはいないと思っている、本音もないが、読まれたらたまったもんじゃねぇ、でもそれ以上に気持ちのまんまでもない。ギリギリ耐えれる文章。

いっそのこと髪の毛できる限り伸ばしてみようかしら?多分2ヶ月後には耐えられなくなってるだろうが!

どうかお願い、1人の時間を沢山作れますように。

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