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制度と文化(4):統治機構の不可欠性

前稿において、国家の文化を日常的に認知する契機が、制度国家の安定した存立の維持のために不可欠であることを確認した。本稿では、制度国家による安定した統治、すなわち、一定の領域において、独占的かつ排他的に支配を行う統治機構を安定した形で持つことがなぜ必要なのかについて検討する。

本稿の問題意識

本論に入る前に、本稿の問題意識を明らかにしたい。
インターネットの普及とデジタル技術の発達により、膨大な情報が個人間で双方向にやり取りされるようになった。とりわけXやInstagramなど、個人が不特定多数に情報発信することを可能とするSNSが広く普及したことで、不特定多数に向けた情報発信をマスメディアが独占していた状況が打ち破られ、言論空間が言わば一挙に分散化することとなった。
インターネット上では様々な情報がやり取りされるが、政治、とりわけ国の政治に関わる情報は日本語話者の大多数に共通するトピックであり、SNS上で扱われる主要な話題の一つである。政策決定において民主主義的な仕組みを採用している国家においては、国民の政治に対する考え方が政策決定に重要な影響をもたらすため、大多数の国民がその情報に触れるSNSにおいて、政治や政策に関していかなる情報がやり取りされるかが、国家の政策決定において重要な要素となる。もちろん、現状においてSNSの利用率が高い若年層の投票率は、そうではない高齢者に比べて明らかに低い傾向にあるが、今後、投票行動の主体となる有権者の大多数がSNS利用者になることは明らかである。
そうした中、SNS上でやり取りされる政治や政策に関する情報には、統治機構のあり方を全く踏まえていない議論や、感情的なもの、印象に基づくもの、更には事実に基づかないものまでが氾濫している。国民が日々の多忙な生活の中で豊富な情報に接して緻密な政策議論を行うことは現実的ではないにしても、政府がどういった仕組みで構成され、どういった考え方のもとで政策がなされているのかといったことを最低限踏まえなければ、目先の政策議論が上滑りして宙に浮いてしまうことになりかねない。
SNSを通じて国民が活発に政策議論を行う主体となる道を開いたという意味において、インターネットの普及は民主主義の大きな進歩の可能性を秘めている。しかしながら、政府やマスメディアが発信する情報について、十分に理解がなされておらず、その潜在性を十分に発揮できていない現状が明らかになっていると言える。

そもそも政府や制度といったものには具体的な形が無く、日常生活の感覚からは捉えづらいものであり、なおかつその構造は極めて複雑である。その全体を緻密に理解することが難しくても、その基本的な構造やこれを貫く価値観については、専門的な訓練を受けていない大多数の国民も理解をしておくべきだろう(こうしたものを理解するための物差しになるような道具が広く国民に頒布される状況になっていないことが、そもそもの問題なのだが、これについては別の機会に議論したい。思うに、政策は抽象的で無味乾燥なものではなく、当座の具体的な社会状況や国際環境に大きく左右されるものであり、こうした具体的な議論が適切な理解のもとでなされる機会を作ることが基本的には必要であると考えている)。
こうした状況の中で、統治機構の必要性について、現代的な文脈に照らして議論することが、政府のあり方や個々の政策に関する議論に一つの出発点を与えるという意味において、一定の意味があると考えられる。

統治機構の必要性に関する説明

統治機構には、国民生活を維持向上させる機能と、文化の器としての機能がある。この二つが、統治機構の安定した存立が人間にとって不可欠であることの理由である。

1.国民生活を維持向上させる機能

(1)国民生活の維持向上と、その前提としての統治機構の存立
統治機構は一定の領域内を独占的かつ排他的に支配する意思と能力を有する組織のことであると述べた。言い換えれば、統治機構に求められる働きは、政策を通じて、①外国からの干渉や影響を排除するとともに、②国内の治安を維持し、国内の社会課題に対応することであるということである。
まず、統治機構は日々の行政活動の中で膨大な業務を処理しており、体制の変更によりその業務運営に予測不可能な変化が生ずることそれ自体が、国民生活の根幹を揺るがすものであることは言うまでもない。そうした国民生活の根幹を支えている行政活動は目に見えないものであるから認識されづらいが、例えば社会保障制度の運用が一日でも停止すれば、国民生活に甚大な影響が出ることは明らかだろう。こうした例はいくつでも挙げることができるが、例えば警察や消防の活動などもそのわかりやすい一例である。
とはいえ、こうした国内の治安維持や社会課題への対応(上記②)は、国民の生活に直接関わる事柄であるため、直感的にも理解されやすい。他方、外国からの干渉や影響の排除(上記①)については、直接的には国民の生活を維持向上する作用を持たないため、直感的に理解されにくいものである。
こうした政策は、国民生活を維持向上するための様々な政策の前提となる統治機構そのものの存立を守るためのものであり、外交や軍事、エネルギーといった政策領域がその典型である。こうした政策の必要性が国民の目からも明確に認識されるようになったときには、既にその政策目的との関係で手遅れに近い状況にある可能性が高い。政府は平時の行政活動において、そうした状況を未然に防ぐことに莫大なコストを割いている。各国が毎年、膨大な支出でもって軍備を維持、強化しているのは、その最たるものである。
更に悪いことに、統治機構そのものの存立を守ることを主たる目的としてなされる政策は、しばしば、直接的には国民の利害と対立する場面がある。そのため、国民から理解を得るどころか、強い反対にさらされやすいのである。
徴兵制や基地の立地などに関する政策はその典型的なものであるが、政府は、個々の国民が、自身の平穏な生活をそれまで通りに営み、その幸福を増進するために不可欠であると考える様々な要素について、統治機構としての存立を維持するためにそれが不可欠と判断されるときには、個々の国民の意思とは無関係に、その追求を一方的に禁ずることがある。

(2)国家の暴力性について
言うまでもなく、統治機構が持つ力が個々の国民の意思と無関係に発動される場面は、軍事や外交、エネルギーといった、統治機構の存立に関わる政策が行われる場面に限らない。例えば、民間企業のビジネスに対する規制や、徴税権の発動もその例である。あるいは、既存の制度、例えば社会保障制度やインフラ整備に係る支出、特定産業の保護などといった、国民生活に直接関わる政策を縮小するといった政府の政策判断が、個々人の生活の水準を低下させ、場合によってはその基盤そのものを破壊することもある。統治機構が有しているそうした冷徹な力、言うなれば暴力性は、統治機構が国民の生活を維持向上させるという役割を果たすために必然的に付随するものであると言ってよい。
そして、統治機構がそうした力を持っているからこそ、政府の意思決定過程には、国民の権利を不当に侵害しないための様々な仕掛けが存在するのだが、それに係る費用や時間が持つ意味もまた、直接的には国民に理解されづらい。
例えば、法律の策定や閣議決定など、政府が意思決定に関与するためのプロセスには非常に多くの工数を必要とする。政策目的を実現するために迅速な意思決定が必要なことは言うまでもないが、政府が思いつきで政策を変更できるようになってしまえば、国民の権利との関係で重大なリスクを孕むことになる。

(注)政府の役割に必然的に付随する暴力性と、それに伴うコストについて国民から十分な理解を得られていないことについては、戦後の国際秩序の特殊性が背景としてあるのではないかと思う。
すなわち日本は、アメリカの同盟国としての立場を選択したことによって、軍事や外交、エネルギーの確保をアメリカ主導の国際秩序にほぼ全面的に依存することができたため、国民との関係で高度に利害が対立しうるこれらの政策に関して、政府が主体的に対応する必要性が生じなかった。結果として政府は、その必要性を国民に説明することも回避してきたのである。
だが、国際秩序が大きく変動している今、日本がそうした状況のもとで安穏としていられる時代は終わりつつある。そのような中、政府はウクライナ情勢に対する積極的な関与や、中国の動向を念頭に置いた軍事・経済面での友好国との関係性の構築に取り組んでいるが、こうした、統治機構の存立に関わる政策と、それに必然的に付随する国家の暴力性について、国民が直視せざるを得ない場面、裏を返せば政府にその説明が求められる場面は今後増えていくだろう。

2.文化の器としての機能

制度国家が国民生活の維持向上のために不可欠であり、その体制の変更には国民生活への予測不可能な変動が生ずると考えられることが、安定した統治機構が必要な理由であることを述べた。それでは、現実的には想定しづらいものの、もしも既存の制度国家を解消し、他の制度国家に対する権力の委譲が安定した形でなされたとすれば、国民生活の維持向上という目的は引き続き果たされるのだろうか。すなわち、なぜ、文化国家と外縁の一致する制度国家を持つことにこだわり、外国政府に日本の統治を委ねてはいけないのか、という問である。
制度国家と文化国家の相互作用については既に触れた。したがって、既存の制度国家のもとで享受している文化は、異なる文化に立脚する制度国家のもとでは、認められなくなることは明らかである。既に述べたように、ここで言う文化とは能や武道などといった体系化されたものではなく、生活上の慣習や道徳感情といったものである。
例えば、現在の日本における生活上の慣習や道徳感情に依拠して暮らす人間がある日突然、権威主義国家による統治に服することになれば、それまでの社会では当然に許されていた政府への批判などできなくなる。これは、言論という文化的な営為に対する制度国家による端的な形での影響の例である。仮に自由主義的な制度国家の支配に服するとしても、その制度国家が依拠する文化と日本の文化は当然にして全く違うものである。
そもそも、自国の統治を異なる文化に属する人格が行うということは、20世紀前半の歴史的経緯から否定された帝国主義の発想そのものである。ある文化を共有する形で成立している社会の統治は、その文化に属する人格においてなされるべきであるという価値観が普遍的に認められていると述べたが、帝国主義の時代が遠い昔に終わり、21世紀になって四半世紀が過ぎようとする今に至っても、こうした歴史的経緯を覆すだけの積極的な理由を見出すことはできない。
これは推測であるが、人間は文化によって自己を定義すると述べた通り、自己の属する文化は自己の人格形成に深く関わるものであり、自己の属する文化の中で暮らすということが、当人に対して大きな安心感や道徳感情をもたらすということが、一般的に言えるのではないだろうか。

人間の認知や身体に関わる限界について

さて、上記2点の議論の前提として、人間はそもそも、国家の枠組みを飛び越えて自由になれるほど、抽象的で万能な存在ではないということを強調しておかなければならない。人間の認知能力や物理的能力には自ずと限界がある。ほとんどの人間は、物理的距離のみならず、言語体系や生活習慣といった文化の違いから、国家の壁を自由に飛び越えて、異なる文化のもとで生計を立てることは難しい。
そして、制度国家の側も、少なくとも現時点においては国籍という制度のもとに、外国人と自国民を明確に区別している。これは現代の制度国家が、文化をその立脚点としているためである。
こうした状況を跳ね除けて、自国で暮らしている今の状況と変わらず、あるいはそれに代わる主体的な意味を見出しながら、異なる文化のもとで生涯暮らせる人間がどれだけいるだろうか。
自分がそういった人間ではなく、また、そういった人間と自分の間に何ら感情的な繋がりもなく、自分以外の誰がそんな状況に陥っても無関係であるという人には、この議論は響かないかもしれない。だが、そのように言い切れる人間は、間違いなくごく少数だろう。

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