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制度と文化(2):現代の国家が抱える非対称性

人間は、直接的には消費の対象とならない事物を作り出すことにおいて特徴付けられる生き物である。こうした営為には、物質面の充足をその主たる目的とするものと、精神面の充足をその主たる目的とするものの二種類がある。例えば、農耕や企業活動、政治行政などといったものが前者であり、芸術や学問、言論、宗教などといったものが後者である。前者を「物質的営為」、後者を「精神的営為」と呼ぶこととする。
言うまでもなく、物質的営為は制度国家としてのあり方に、精神的営為は文化国家としてのあり方に大きく関係している。また、いずれも、自分や他人にとって何らかの価値を持つ何らかの事物を作り出す、あるいは形にするためになされる作為であるという意味において共通するが、精神的営為よりも物質的営為のほうが、大規模かつ組織的に行われる傾向にある。

現代という時代の特徴

ここでこれら2つの営為を定義したのは、現代という時代が持つ以下2つの特徴を明らかにするためである。
1.物質的営為と精神的営為の結びつきが失われた時代であること
例えば、古代の日本において、農耕が様々な祭儀を生み出し、翻って祭儀は政治と不可分であったし、仏教は日本に伝来してからしばらくは朝廷による統治のための手段として発展した。こうした傾向は世界的に見られるものであるが、世界のいずれの地域においても、時代が降り、社会が高度化していく中で両者は分離していく傾向にある。
今日の物質的営為の典型である企業活動は、精神的営為としての側面をほとんど持たない。政治や行政活動も同様である。逆も同様で、今日、芸術や学問が物質的営為としての側面を持つことは少ない。
2.人間の生活に占める物質的営為の比重が相対的に高まっていること
とりわけ近代以降は人間の生活が科学によって大きく規定されるようになる。客観性をその条件とする科学の性質は物質的営為との相性が良く、近代以降、物質的営為は高度に発展していくこととなる。
翻って、科学と相性の良くない精神的営為は、迷信として退けられたり、生活上の意味を持たない、何らか劣ったものと見做されたりするようになる。物質的営為と切り離されたことも相俟って、結果として、精神的営為が人間の日常生活に占める比重は大きく減少している。

現代が抱える非対称性

物質的営為が制度国家の形成に、精神的営為が文化国家の形成に大きく関係していることは既に述べた。国家とは言うまでもなく、制度と文化、いずれの側面においても物理的実体を持たない存在であり、人間の想像の中でのみ存在し得るものである。したがって、国民国家とはすなわち、当該国民国家の制度と文化が「いかにして認知されるか」それ自体であると言える。現実世界においてなされる物質的営為と精神的営為の総体が、制度や文化といった想像上の形をとって人々の前に現れ、国民国家として認識されるのである。
これまでの議論を踏まえれば、現代とは、国民国家の二つの要素である制度と文化のうち、文化的な契機が極めて希薄な時代であると言える。これを「現代が抱える非対称性」の問題と捉えたい。

文化的契機の不可欠性

人間は抽象的な個として存在するのではなく、周囲の環境に反応し、これにより他者との「違い」に気づき、それにより相対的に自己を定義する存在である。換言すれば、「文脈」の中に自分自身を位置付けることで、初めて自己を定義できる存在である。
制度とは合理性のもとに構築されるものであると述べたが、合理性の産物であるが故に、これに関わる人間を類型化し、可能な限り抽象的な存在として捉える方向性が働く。これに対して文化は非合理性の産物であるから、これに関わる人間において各々の自由な解釈が可能であり、文化の側がこれを類型化することはない。ここに「違い」が許容される余地があるのである。
例えば、ドビュッシーのプレリュードをいい曲だと思う人もいれば、聴いても何の印象にも残らないという人もいる。前奏の入り方が好きだという人もいれば、エンディングの盛り上がりに高揚する人もいる。これは音楽という文化作品を例にとった説明だが、文学や生活習慣、地域の風習、言葉遣いなども広い意味での文化であり、人間はこうした様々な文化への反応を通じて「違い」を実感し、自己を定義することができる。文化に対する受け手の反応は完全に自由である。
これに対して、制度はその受け手の自由な反応を認めない。市役所で手続を受けようとする住民が、気に食わないからと言って様式に記入しなかったり、求めるサービスを文字ではなく踊りで表現しようとしたりしても、制度の側がこれを受け付けることは無いのである。
ここまで、一般論としての「文化的契機の不可欠性」を説明した。次稿において、「国家の文化的契機」がなぜ必要なのかを検討する。

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