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2023.06.06 0:39

同級生やお世話になった人の死が急に訪れて明らかに僕の中の死生観みたいなのものが今年に入って大きく変化したなと最近常々思う。何かと普通に生きながらその死生観の物差しが生活の判断に、かなり影響している。

頭のどこかでわかっていたことだが僕の知らない間にだれか死んでいて、僕は何事もなかったように生きている。知らないだけでこんなことが、たぶんたくさん起きている。そしてそれは自分にも言えると気づいた。僕もいつ死んでもおかしくないんだよなぁと。

家族も、恋人も、友人も、友人でない人も、知らない誰かも。わかっていたが身に沁みて思う。自分の命が80歳までだとして・・・とか、いつかは・・・みたいな呑気にしてられない。やりたいことは早くやったほうがいいし、食べたいものは食べたほうがいいかもしれない。本当に明日死ぬかもしれない。

そんな風に思えるようになるとなんか小さいことで悩んでいるの本当にアホらしくなったりする。あ、なんかどうでもいいなと本当に思える。無責任になれる。そんなことに自分の命の時間を削りたくない、削ってる場合ちゃうなとか思う。なぜなら僕は明日死ぬかもしれないから。(#自殺願望はない)


誰かのためにとか想う前に、自分のことを想うほうがいい。映画見たほうがいいし、本読んだほうがいい。散歩したほうがいいし、なんか作ったほうがいい。旅行に行ったほうがいいし、詩を書いて歌ったほうがいい。写真を撮って、家族と過ごしたほうがいい。自分が心から楽しいと思えることをやったほうがいい。時間を大切にしたほうがいい。健やかに生きることを優先したほうがいい。そうやって生きながら関わっていく人たちを大切にしたほうがいい。なぜなら生きてゆける保証などどこにもないから。

文字にしたらすごい自己中心的な人間になった。でもそんなことを本気で考えている。死ぬと宣告されたら何するだろうかとか、誰に会うだろうかとか。ミサイルが落ちる前に、地震が来て津波が来る時にはもう何もできない、自分にも、恋人にも、両親にも何もできない。そもそも死ぬ時はそんな猶予などないだろう。


そんなことを考えて今朝、庭に植えているハーブにのっかていた小さなカマキリを見つけた。僕はそこにちゃんと命を感じてた。秋の終わりに卵産んで、冬超えて生まれたのすごいな、お前。

とか言いながら蜂の巣とかぶっ壊してるのは見逃して欲しい。ごめん。自分の命も守らねばいかん。

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