本願実践の「場」

「信仰を得たら何が変わりますか?」――訊ねられる毎に苦悶する難問であり、断続的に考えている問題である。これは自身の研究課題とする西山義祖・證空(1177 - 1247)に次のような言葉があることにも起因している。

他力の人は、心に極楽を願う信心いたくおこらず、妄念すべて止まらぬにつけても、あら忝なの仏の願行や、五劫思惟の願が凡夫往生の願とならせずんば我等が往生は思いぎりなん。我等が願行を成じたまえる忝なさよと拝む故に、夜もすがら念じ日ねもす唱うれども、自力にはあらず、念々声々に他力の功徳が円満するなり。

(證空『述成』、『西山上人短編鈔物集』、88頁)

 ここで「他力の人」と言われる念仏者について、浄土を願う心もおこらず、迷妄も止まない姿が語られるが、證空における自覚の吐露だと言ってもよいのであろう。それでは「他力の人」になっても何も変わらないのではないか。正確に言えば、弥陀の本願に帰するという宗教体験は、個人の人格を変えるものではないのか。変えるものではないとするならば、「他力の人」になるとは如何なる意味で従前の自己とは違うのか。こうした問いである。現段階のひとまずの回答として考えているのは、本願に帰入するということは、私の人格が変わるという体験ではなく、立つべき土台、大地が与えられるという世界の変容ではないかということである。これについて少し考えてみたい。

 我々は刻々と変化だけはしているのであり、求めているのは「意味のある」変化であろう。求道上で言えば、本願を信じて浄土を喜べるようになった、ありがたさを感じるようになったという変化があれば、仏道を歩んできた有意味な結果として安堵できるのかもしれない。しかし、そうした変化、体験をして往生の確証とするわけにはいかないであろう。これは求道心が変化することの価値を否定するものではなく、凡夫の知恵で判断、確信できる範疇に往生浄土はないということである。
 證空は「自力の人」については、「信ずる心発る時は往生も近々と覚え、妄念発りて心ならぬ時は、往生も遠々と覚ゆるなり」(同上、87頁)としている。本願を信じる心がおきる時は往生を確信し、そのような心でいられない時には往生も遠いと思うのが「自力の人」の姿なのだという。これは何が問題なのだろうか。おそらく、浄土を近くに感じ取るようになったなどという変化をもって、それを往生において「意味のある」変化だと受け止める態度が問題にされているのであろう。往生という次元においては、自らが「意味のある」と思う変化、体験にすがる心こそ自力と言われるのである。

 弥陀の本願に照らされて仏道を歩むというのは、我々にわかりやすく有意味な変化や体験が与えられるものではないということにもなろう。その反面、歩みの一つ一つを我々が思う有意味/無意味という範疇では判定されないということでもある。

 しかし、これは無心に、気兼ねなく歩ける道が与えられるというものではない。凡夫の抱える罪悪は変わらないのであり、罪悪は罪悪として知らされるのである。それは罪悪の凡夫とは、浄土にしても僧伽(サンガ)にしてもそれが与えられるに値する存在ではないということの自覚でもある。しかし、この罪悪離れがたき凡夫を場として成就するのが、浄土を与えんとする弥陀の本願なのである。先の『述成』で證空は、妄念の止まない自己に満ちる他力の功徳を「あら忝(かたじけ)なの仏の願行」だと言っていた。これは本願への讃嘆であり、卑小な自己の分を超えた境遇であることの自覚でもある。かたじけなくも、弥陀が本願を成就していく実践の場として、凡夫の世界が宗教的な意味転換をするのである(これは證空のいわゆる「往生正覚倶時」説から敷衍して考え得るものである。拙稿「天台本覚思想と證空――「現生往生」思想の究明を射程に入れて」『花野充道博士古稀記念論文集 仏教思想の展開』〔山喜房仏書林、2020〕参照)。

 あえて言えば、弥陀の歩みの場として我々にも道が与えられていくということになろうか。冒頭の問いに対して、以上のような立つべき、歩むべき世界の変容があるのではないかということを考えている。

※親鸞仏教センターホームページ「今との出会い」Vol.230(2022年6月1日更新)より転載

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