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R5.4.24 ちょっと探究

昼に起きる。悲しいかな午前中の講義に出られなかった。冷凍チャーハンをささっと食べて午後の講義へ。生物の実習でデータ整理をする。Excelが何度も固まって大変だった。

本日読んだ本は、鬼界訳『哲学探究』を少しと野矢茂樹『『哲学探究』という闘い』。

哲学探究

『探究』の方は規則の話を読んだ。とにかくくどかった。次のページから「私的言語」論を含むパートに入る。

規則の話は、ちょうど今読んでいるカヴェルの本でも言及されていた。その節のことをカヴェルは「教示(instruction)の場面」と読んでいる。

「いかにして私は規則を従えるのか?」―もしこれが原因に関する問いでないのなら、それは私が規則に従ってこのように行動していることの正しさの証明を求める問いである。
 根拠を使い果たしたら、私は固い岩盤に行き当たってしまう。そして私のシャベルははね返される。そのとき私は、「とにかく私はこのように行動するのだ」と良いたくなる。
(時として我々は、その内容でなく、説明という形を求めて説明を要求することがあるのを思い出してほしい。それは一種の建築様式上の要求であり、何も支えない建物の蛇腹のような説明を求めているのだ。)

ウィトゲンシュタイン著、鬼界彰夫訳『哲学探究』217節

強調は原文のやつです。さて、デリダの言う「シニフィアン形式のこうした統一性が、自らの反復可能性によって構成されている」をカヴェルはからかって、「シニフィアン形式はその反復可能性によって自らを反復させる。」と言う。このことを私は「なぜ反復するかって? とにかくこうするしかないんだ。」と言うしかないもどかしさをなんとか言葉にしようとする活動と解釈している。
このことを一緒に考えたいものとして、「なぜこう喋ろうと思う前にすでに喋っている」という問いがある。これはウィトゲンシュタイン研究者の古田徹也が娘にこのような質問をされてハッとした話である。
私の答えもまた、「こうするしかないから」というものになってしまう。『哲学探究』の219節に「規則に従うとき、私は選択をしない。/私は考えずに規則に従う。」というものがあって、このことを言いたいのかなと考えたわけです。

とはいえ、ウィトがどのようにして『探究』によって規則と戦おうとしているのかまったくわからなくなってしまいました。なぜここまで執拗に反論を持ってきて、それを崩そうとするのか。その反論もよくわからなくて、あまりにも普通すぎて逆にわからなくなっているようです。

『哲学探究』という闘い

上のような経緯で、『哲学探究』という1冊の本として何をしようとしているのかわからなくなりました。カヴェルもどちらかといえばつまみ食い的な引用ばかりするので、全体像が掴めない。
そこで野矢茂樹が『探究』1部を1冊の本として解説していくコメンタリー形式のこの『闘い』を読み始めました。

ウィトが何を言おうとしているのかを、『論理哲学論考』の内容を噛み砕いて説明しつつ、『探究』が闘っている相手はこれだよと教えてくれます。『論考』を読んだのがおよそ1年前なのもあって、今一自分でも内容を覚えていなかったのだなと気付かされました。『論考』を輪郭として描き出すことによって、『探究』の相貌が浮かんで見えてくるかのようです。ちょっとだけ励まされました。
『探究』の心理像パートをじっくり読み進めつつ、こっちの方も読んでいこうかなと思っています。

おまとめ

今日はウィトを読む日になりましたが、別にそれだけじゃなくって、芸術理論の話にもちょっと気が向いていました。

フリードの論文がこの本に載っているのですが、京大の図書館に置いてなくて、本当に苦しいです。いつか書いたいわけですね。
にしてもこの本、すごいですね。グリーンバーグからクラウスまで、ちょうど私が気になる範囲の話をしている。
まだグリーンバーグがどのような仕事をしたのか、せいぜい「メディウムの固有性」というワードしか知らないのもあって、かなり気になっています。

昨日はカヴェルの訳読をして、今日はこんなわけだったので、しばらくはカヴェルに関る文献を中心に漁っていくことになりそうです。

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