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漫画とうごめき#5 【Podcast台本】

漫画ストーリーの解釈を語るPodcast 「漫画とうごめき」のストーリー解釈部分を掲載します。
※そのまま掲載しているので、読みづらいかもしれません。

◎Podcastの内容紹介

#5 -『仮面学級』から感じる快楽と自己への配慮

原作・北國ばらっどさん、作画・桜井みわさんの作品『仮面学級』を独自の視点で読み解きながらご紹介。今回は、フランスの哲学者ミシェル・フーコーが唱えた〈自己への配慮〉という概念を用いて語っていきます。※この番組は全力でネタバレをします。漫画『仮面学級』をまだ読まれていない方は、まず先に『仮面学級』を読まれてから、本エピソードをお楽しみください。
仮面学級 - 北國ばらっど/桜井みわ | 少年ジャンプ+ https://shonenjumpplus.com/episode/3269754496597279057 北國@ばらっど (@barabarawhite) / Twitter https://twitter.com/barabarawhite 桜井みわ (@smiwa0515) / Twitter https://twitter.com/smiwa0515 M.フーコーにおける「自己への配慮」 - J-Stage https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsr/59/3/59_3_478/_article/-char/ja


ストーリー/解釈

ここからはより詳しいストーリーを追いながら、この物語を読み解いていこうと思います。
で、読み解くうえで、今回も一つの概念を用いて語っていこうと思います。
その概念は「自己への配慮」です。
自己への配慮の自己は、自分自身とかの意味の自己で、配慮は、誰かに配慮する、とかで使う配慮ですね。
なので言葉の意味的には、自分自身への配慮を意味する、みたいな感じです。
で、この「自己への配慮」という概念は、フランスの哲学者のミシェル・フーコーが唱えた概念なんですが、これまたちょっと難しい概念です。
概念の詳細な意味に関しては、ストーリーを追いながら考えてみてもらえればと思います。

まず、この漫画の冒頭は主人公の女の子が小学生の頃のシーンから始まるわけですね。
小学生の頃の主人公は、男の子のような服装で髪も短くしていて、で、男友達とサッカーで遊んでたりしてるわけです。
で、自分のことも「僕」と呼んでのですが、
同級生の女の子達から「変なの、女子なのに」と言われてしまうわけです。
で、現在。
主人公はすっかり普通の女の子になっているわけです。
流行のおしゃれをして女の子の友達と遊んで、鞄につけてるアクセサリーを可愛いねとか言われてるわけです。
で、家に帰ると、そのアクセサリーを見て「本当に可愛いか?これ?」と疑問に思ったりするわけです。
なので、彼女の個人的な感性としては、いわゆる「女の子」というステレオタイプには当てはまらない感性を持っているわけなんですね。
ただ、冒頭のシーンのように、ステレオタイプにはまってないと社会的には集団の中で居づらくなる圧力がかかるわけです。
ここに権力が発生しているわけですね。
で、権力というのは、社会を支配する誰かがルールを決めて、で、その権力を振りかざしているわけではなく、個々の主体同士の間にある感性の違いからくる衝突や迎合、また同調や共感から発生すると考えられるわけなんですね。
その人その人が空気を呼んでそのように振る舞ったり迎合したりすることで、権力というのが生まれてくるということですね。
そして、主人公も集団の中で醸成された、女の子は普通こうでしょ、みたいな権力に従わざるをえなくなって生活している。
まあ、従わなくても良いのですが、コミュニティの中で生きていくには従ったほうが生きやすいわけですね。
で、そのことに違和感を感じながらもなんとなく楽しく生きているわけです。
そんな時に緊急事態宣言が発令されて、一度も登校することなく高校が休校するわけです。
親やテレビではかわいそうにと言われているわけなんですが、主人公はめちゃくちゃ喜ぶわけなんですよね。
なぜなら、クラスでみんなに合わせる生活を主人公はできはしているわけだけど、一方でそれがとても苦痛だったわけですね。
そのみんなと合わせなくてはいけなかった状態を、主人公は「私に言わせればクラスの会話って、せーので飛び続ける大縄跳びみたいだった」と言ってるわけです。
で、このせーので飛び続ける大縄跳び状態のことを、「自己へ配慮していない」状態、といえます。
このような「自己へ配慮していない人」のことを古代ギリシャでは「ストゥルトゥス」というらしいです。
ストゥルトゥスの意味は、まったく自然に見出される不決断の状態にある者。とあります。
噛み砕くと、外的世界に開かれてはいるが、外的世界から与えられたことをそのまま自分の精神の中に内面化している、
いわゆる常識や普通に疑いを持たず当たり前だと過ごしている人、みたいなイメージなんじゃないかと思います。
また、「ストゥルトゥス」の存在により、権力がより権力をもつようになるとも言われています。
空気を読んで忖度したり迎合したりすることで、その権力はより強固になって、そして自由を失わせていくということですかね。
で、そういった状態から脱出することが、自己への配慮をする、ということなんだと思います。
フーコーは自己への配慮ができることを、「自己を欲することができ、自己自身であろうと欲することができ、自由に、絶対的に、恒常的に欲することができる唯一の対象であるものとしての自己へ向かうことができるようにすること」と語っています。
だいぶ分かりづらいですね。
メチャクチャシンプルにいうと、自分自身というものを見出し、自分自身であろうとすることが、自己への配慮ができている状態、と言ってるんじゃないかと思います。
それが、権力への抵抗でもあるということですね。
で、奇しくも主人公は、その抵抗のきっかけを緊急事態宣言によってえるわけなんですよね。
そこから、学校に行かなくて最高だ!と思っていながらも、課題を自宅でする生活が始まるわけです。
その中で、仮面学級というものの存在をSNSで知って参加するんですね。
それは、「根津さん」というネズミの仮面を被った人が始めたメタバース空間です。
で、主人公は、猫の仮面を被った男の子のアバターを選ぶわけです。
なので、仮面学級での呼び名は「猫谷くん」になるわけですね。
主人公が仮面学級に参加すると、既に12人の参加者がいて、みた感じそれぞれ十二支の動物の仮面を被っているようです。
羊田くんや、牛澤くん、兎海くん、鳥居さん、馬場さんなどとそれぞれ名乗っています。
で、発案者の根津さんはここに参加しているみんなは同じクラスではあるけど、お互いに本名は秘密にするようにといいます。
この状況は、リアルの学校生活に存在していた権力構造がある程度リセットされた状況とも言えます。
より、自己への配慮をできやすくなった状況になっているんじゃないかと思います。
で、匿名の関係性であることをいいことに、鳥居さんが「実は私ずっと保健室登校だったんだよね」とか、「私はねーどエロい漫画書いてる」とかいい出します。
ただ、そうやってみんなが自分のことを赤裸々に語る流れに主人公は少し焦ります。
主人公は、たとえ匿名の空間でも、自分自身を表に出すことに怖さを持っているわけですね。
で、ふと主人公は、みんなから離れて一人で椅子に座っている女の子、犬山さんの存在に気付きます。
主人公はみんなの話から逃れて犬山さんと会話し始めます。
で、犬山さんに「普段はどう時間潰してる?」って聞くわけですが、犬山さんは少し恥ずかしそうに「曲、作ったりとかしてるよ」といいます。
そうしたらさっきまで赤裸々に自分を暴露していた鳥居さんが話に入ってきて「えーなんや、アーティスティックな趣味やん犬山」といってきます。
それに対して猫谷は「べ 別にいいじゃん、作曲」とフォローしようとします。
それに対して鳥居は「や 別に悪いとは言うてないけど」と返します。
主人公は、自己へ配慮しないことに慣れすぎているのか、とっさに普通から外れているようなことは、周りから否定されることだと感じてしまったのかもしれません。
で、そこからは犬山さんが作曲について話しをするわけですね。
その話の流れで、犬山さんが自分が作曲するきっかけになった曲を主人公に送ると言い出します。
その曲はココアとか飲みながら聞くともっといい感じに聞けると、自分の曲の楽しみ方を伝えます。
そこに主人公はキュンとしながら「いいねそう言う曲」と反応します。
それに犬山さんは喜んで、二人はどこかいい雰囲気になっていきます。
ここで、犬山さんは恥じらいながらも、自分自身の感性を主人公へ出していくわけですね。
そして、犬山さんのその態度に、主人公は共感のような、安らぎのようなものを感じるわけです。
二人の間に関係性が生まれうごめきだしたと言えますね。
で、犬山さんにお勧めされた曲をココアを飲みながら主人公は聞くわけです。
その時、「本当の私は、バラエティ番組よりも古い小説が好きで、流行のスイーツより駄菓子が好きで アイドルの曲より雨の音が好き」と自分自身の感性を頭の中で語ります。
ただ、今まで自分は周りの子に合わせていたんだと。
この時、主人公は少しずつ「自己への配慮」を考えるようになってきたわけです。
集団の中での空気から生まれた権力に従っているときは見えづらくなっていた自己への配慮を、この仮面学級という空間と犬山さんとの関わりによって思い出させられたとも捉えられます。
で、ある雨の日、犬山さんと主人公は仲良く話しています。
主人公も「画面越しの私たちは現実よりよっぽど素顔でいられる気がする」と考えます。
で、会話の中で、犬山さんは雨が好きだと話し出します。
「岩に染み入る蝉の声ってあるでしょ。固い岩に音が染み込むって表現が、子供のころ不思議だった。でもある日雨の日の中を歩いていたら、なんだかサァーッて雨の音が街に吸い込まれて行く感じがして、音はするのに静かで、ああ音が染み込むってこう言う感じなんだって」とめちゃくちゃ素敵な言葉で雨に対しての感覚を言語化するわけです。
それに主人公は自分自身も雨が好きで、犬山さんの語った感性に共感を覚えて感動します。
その時、主人公は犬山さんと繋がった感覚を覚えたのでしょう。
そして「わかるよその感じ」と言います。
すると、犬山さんは「ほんと?わかってくれると思ってたキミなら」と言います。
この時、主人公の中では、本当の自己に触れるような感覚を犬山さんとの共感を通して感じたのでしょう。
これは、僕は個人的に拡張的快楽体験と呼んでるんですけど、人は他者と自分の境界が曖昧になった時に快楽を感じると思うんですよね。
で、快楽とは、寂しさを埋める役割を持っている、なので、ただ寂しさを埋めるだけの場合、快楽は消費されていきます。いわゆる娯楽という形で。
なので、それは消費的快楽と捉えられます。
ただ、同じように寂しさを埋めるものでも、自分と他者との境界が曖昧になって感じる快楽、そして今まで見えていなかったものが見えるような感覚をえる快楽というのがあるとも思うんですけど、それが拡張的快楽です。
そして主人公は「自己へ配慮する」
うごめきの中で本来の自己を欲する。という感覚をここではっきりと拡張されたんじゃないかな、と思います。
それは、今まで、どことなく感じていた寂しさを埋められた快楽と共にやってくるわけです。
そして、その後、緊急事態宣言があけます。
それに伴い根津さんが仮面学級を終わりにすると告げます。
それに対してみんなは、まだやろうよ、というわけですが、ねずさんはずっと仮面学級があると本当の学校が必要なくなってしまうかもしれない、なのでここは終わらせて、来週の月曜リアルの学校で会いましょうと諭します。
で、みんなもしぶしぶ納得して、またねと言ってログアウトしていきます。
ただ、みんな匿名だったので、誰が誰なのかはわからない状態になるね、と言いながら出ていきます。
犬山さんも「じゃあまたね猫谷くん」と言います。
で、主人公は、犬山さんへの最後の言葉をなんと打つか迷いますが、結果的に「バイバイ犬山さん」と書いて自分もログアウトします。
この時まで、仮面学級でもその中でのうごめきがあって、その中での個々人の関係性のうごめきによって、新たな権力構造が生まれていたのだとも捉えられます。
それは、仮のうごめきであるという前提のもとで生まれる権力構造、本当の自分を出していい、という権力とも言えます。
そして、主人公はそこに心地よさを感じながら過ごしていたわけですね。
自己を配慮することが実践されている自己同士は、互いに他者の自己を配慮することへの導きも同時に行っていわけです。
そして、そこでは自分の普通や常識が絶対であるという態度を取るのではなく、ただそれぞれの自分を欲している状態であれたわけです。
そのようなうごめきの中で共感し合える部分があるからこそ、大きい快楽になるのではないかと思います。
仮面学級が終わった後、主人公は元の女子高生として、おしゃれをして、マスクをつけて学校へ出かけます。
そして「一歩ずつ学校へ近づくたびに私は仮面を被る」と考えます。
クラスに着くと、元中学校が同じだった女の子が声かけてきます。
「同中の子いてよかったわ〜、学校始まるとダルさエグーい、家にいてもだるかったけど」といかにもな会話をしてきます。
それに対して主人公も合わせるように「あたしも〜やること無いし」と会話します。
頭の中では「そんなことなかったけど」と考えながら。
この合わせる、という行為が実は自己への配慮を遠ざけて、ステレオタイプ的な権力を強めることになるわけですが、リアルの空間での権力構造は合わせるという行為を自然に行わせます。
で、みんな初めての投稿なので、よくあるような感じで、それぞれ一人ずつ自己紹介をしていくことになります。
それを聞きながら主人公は、このリアルな学校での個性のない感じにつまらなさを感じて、こっちの方がよっぽど仮面学級みたいだ、と考えます。
ステレオタイプに合わせるという行為は、それぞれ異なる自己を見にくくしていくわけですね。
で、順々に自己紹介して行く中で、一人の男の子が「雨の音が好きです」と言います。
急にそんなことを言うから周りはざわざわします。
「え?なに?雨?」と。
ただ、主人公はその男の子が犬山さんの正体であることを気づくわけです。
犬山さんの犬の仮面を取ったらその男の子だったわけです。
で、隣の友達から「何気取ってるんだよー」と突っ込まれて「うるせー」と男の子は答えます。
その時主人公は「男の子だったのか」と思います。
そして、またこう考えます。
「上手くやるための仮面を被り続けた私たちは、そうして自ら進んで、いつも、自分たちをつまらなくして」と。
この時、今いる空間での、自己への配慮をできなくする権力構造に気づくわけです。
そしてこう考えます。
「だけど、皆は素顔の私を笑うだろうか。だとしても今は意外と怖くはない、今は届けたい気分だった」
そして、自分の番が来たときに主人公はマスクをとって
「僕の好きなものはー」と話し出します。
そして「うまくやっていくのはその後考えよう」と考えます。
ここで物語は終わりです。
最後、現実の世界でも、犬山さんである男の子に、自己への配慮へと導かれたと捉えられますね。
現実の世界での学校でのうごめきは、その権力構造となっている、ステレオタイプ、普通とか常識にそれぞれが合わせてそのように振る舞っているわけです。
それはまさに自己を配慮していない状態。だからこそ、そこから外れる人は普通じゃないとして常識を押し付ける空気が構造的に生まれる。
しかし、それも結局はそのうごめきの中でそれぞれが迎合してそうしているわけで、実はそのうごめきの中でも自己への配慮は実践できる。
そして犬山さんはそれを行った。その時、主人公も影響を受けて、この現実のクラスといううごめきの中での自己への配慮へと導かれるわけです。
そして、本来の自分自身を感じる一人称、僕は、と語り出したわけですね。
その行為が自己への配慮、権力への抵抗へとつながる。
それは決してうまくやれる行為ではないですし、割を食う可能性もある。
しかし、自分自身へとは近づくわけです。
そしてそれは、仮面学級や犬山さんとの間にある権力構造に従っているとも捉えられるし、導かれているとも捉えられる。
おそらく仮面学級がずっとつづくうごめきであれば、その権力構造はムラ化し、形骸化する。そうなるとまたそこでも自己への配慮がしづらくなっていく。
だからこそ、仮面学級は一時的であることに意味があったのでしょう。
はい。ということで、ここで以上です。

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