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漫画とうごめき#13

森もりこさんと岩浪れんじさんの漫画作品『ぼくさつのやつ』をテーマに、連想される事柄や文化、思考を綴っていきます。

※このnoteは全力でネタバレをします。漫画『ぼくさつのやつ』をまだ読まれていない方は、まず先に『ぼくさつのやつ』を読まれてから、本エピソードをお楽しみください。


[特別読切] ぼくさつのやつ - 森もり子×岩浪れんじ


漫画のあらすじ

深夜、スーパーのバイトで疲れて、めっちゃイライラしている若い男がマンションに帰ってきます。
この男は、ロン毛のちょっともっさい感じの男なんですけど。
「くそっ、早く寝てー」て、めっちゃイライラしてるんですね。

で、マンションのエレベーターに乗ったら、先に乗っていた新聞配達員の爺さんに舌打ちされるんですよね。 男はそれにキレて、ウイスキーの瓶で爺さんを殴り殺しちゃうんですよ。

しばらく倒れている爺さんを見て、正気に戻った男は「あ、あー、買ったアイスが溶けちゃう」みたいなこと言っちゃったりしいて。
まあショックを受けてだとは思いますが、なんかこの男のキャラクター性が見えてきますね。

で、その若者には、なぜかめっちゃ付きまとってくる女の子がいるんですよね。
かなり一方的に若者のことを好きになっていて、毎日つきまとって、ついには同じマンションに引っ越してくる、みたいな。
で、この女の子のキャラがヤバくて、 常に冷静で普通に綺麗にしてる女性って感じなんですけど、平然といかれた行動をしていて、勝手に若者の家の合鍵とか作ったり若者の実家を調べだして「実家大きい家なんだね」とか言ってくるような子なんですよね。

で、ピンチになった若者は、この女の子に助けを求めます。
「俺のこと好きなら手伝って」みたいなことを言って。 なかなかにクズ発言ですけど、女の子は冷静に承諾します。

で、「山に埋めに行こう」つって死体を車に積んで、山に登って埋めにいくわけです。2人で完全に犯罪をやっちゃうわけです。

そいで、この後の展開がさらにやばいんですよね。

その後2人は山に行って、頑張って穴を掘って、どうにか死体を埋めることに成功します。
埋め終わった後、なぜか女の子が男の乳首をぐいーーっって、つねってきて、 男も「痛い痛い、やめて」ってなるんですけど、
その後、女の子が「セックスしよう」と言いだすんですね。

そいで、死体を埋めた横で2人は青姦するわけなんですけど、 その時2人とも昇天するかのような感じで「最高〜〜」てなるんですよね。

ここの描写がヤバくてですね。
殺人とセックスが同時に行われてる、という異常性。でもなんか夜中に遊んでいる若者の日常性、みたいなのも感じるというかですね。
「セックスアンドバイオレンス」が流れてきそうな、 衝動的で破滅感を持った快楽主義を感じますね。

カリス

このシーンから、死と性の関係性というか「そういう人類学の話あったなー」と思い出しました。

以前WEBメディアのDOZiNEに掲載されていた対談記事で、 人類学者の奥田克己さんと彫り師の大島托さんが語っていたお話があってですね。
以前、奥野さんが「カリス」と言う民族のところで、フィールドワークをしていたそうんなんですよね。
で、その時に亡くなった人がいてその方の葬儀に参加したんだそうです。

葬儀自体は、死んだ人をこの世から分離してあの世へと送り込む儀礼なわけですけど、 誰かが亡くなるということは、その人に関係する親族たちが葬儀に一斉に集う機会になるわけです。
なので、小さい頃あっただけで何年も会ってなかったような、若い男と女がそこに集うんです。
で、カリスのインセストタブーの範囲は第2いとこまであると。
なので、それ以外の関係であれば結婚もセックスもできる相手なんですね。

で、葬儀の日には、死者を弔いながらもどんちゃん騒ぎやバカ騒ぎが許される側面もあるそうなんですね。
奥野さんも葬儀の日に、高床式の家の下でいちゃついている男女を目撃したことがあるそうなんです。 で、どうも彼らは性行為に及ぶ寸前であったと。

なので、死の機会とは同時にセクシュアリティが開花する機会でもあるんだと。 葬儀では死の弔いだけではなく、実は同時に生を引き寄せるものでもある。あるいはセックスまでして子供が生まれるといった形で、新たな生を導き出す機会でもある、ということですね。

で、こういった葬儀でセクシュアリティが開花するという事例は、他にも人類学の文献でしばしば出てくるそうなんですね。

普段我々は日常の暮らしから死を遠ざけようとしているんだけど、実は生というものの裏や隣には常に死があって、葬儀においては、それが一体となって溶け合っているんだ、と奥野さんは言われてます。

死を刻む

この話はもう少し発展するんですけど、 奥野さんの話に反応した対談相手の大島さんの話も面白いんですね。
大島さんは「縄文族」というタトゥーカルチャーを牽引する方なんですけど、 世界中のトライバルタトゥーの研究をされているんですね。

で、タトゥーというのは死を体に刻み込む行為でもあるんだ、 とおっしゃられてます。
なので人類学的に見ると、タトゥーを入れるという行為は、 生と死が一体であること、死は生であり生は死であることに気づく機会を提供することでもあるんだ、と理解できます。
ここらへんの関連性が、シラフの現代社会からタトゥーがタブー視されていることの、根本の部分にあるんじゃないかと言われてるんですよね。

つまり「生と死の間に立てた壁を破ってはいけない」という感覚が現代社会にはある。
死者やセックスに何か危険を感じ、なんとかして隠そうとしている。
それを「社会の中であからさまに見せてしまったらダメなんじゃないの。 それやっちゃったら現代社会が終わっちゃうんじゃないの。 そんなことしたら我々が個として存在しているという信仰が終わってしまうんじゃないの」と、 そういうシグナルが逐一点灯するんだと思うんだと。
「それは農耕社会に築き上げられてきたセーフティーガードみたいなもんだと思うんですよね。」と語られてます。

つまり、死を遠ざけたままにしておくことによって成り立っている私たちの日常の秩序というのがあり、死やセックス同様、タトゥーもまた、日常を脅かしかねないものだからタブー視されるんだ。ということですよね。
タトゥーアンチな人というのは、タトゥー嫌いであることについて色々とそれっぽい理由をつけて語るわけだけど、無意識的に生と死の壁を越えてしまう危険性を感じているのかも知れない。

ロゴスとピュシス

なので、ギリシャ哲学の言葉を借りるなら、現代というのはロゴスが異常に強くなっている時代なんだということですね。
近代にかけて我々はロゴス(理性)によって世界の秩序を保った方がいい、という考え方で生きている。
ロゴスの強化によって、これまで我々の生活は豊かに発展してきた。という事実はあるわけですが、その一方でピュシス(自然)の視点がめっきり失われている。

「全ての秩序あるものは、その秩序が崩壊する方向にしか動かない」という、エントロピー増大の法則で考えるならば、 ロゴスによって生と死を分けて、 崩壊を先延ばしにし秩序を維持している状態というのは、
もしかしたら限界を迎えてきていて、今後大きい崩壊に向かうかもしれない。
まあ、そこらへんの危機感が今の時代になって、あらゆる場面で言われるようになっているのかもしれないですけどね。 ただ、本質はそういった構造にあるのかもしれないです。

ヘテロトピア

といった感じで、かなり漫画から脱線しましたが、 ともかく2人は、この現代社会でタブーとされていることをやったわけです。
とはいえ「それがいい、人殺しがいい」とかそういう話ではないので、そこだけ誤解のないようにお願いします。 現代においては、絶対にダメなことを2人はしてるわけです。

で、この、現代の社会から逸脱している、2人が置かれている状況、死体を埋めてセックスをしたこの場、というのは、もしかしたらフーコーの言っていた「ヘテロトピア」なんじゃないか。とも思ったんですよね。

ヘテロトピアというのはフーコーが唱えた概念で、僕もちゃんと捉えきれていないものなんですけど、ユートピアってありますよね。

現実世界から逸脱した楽園、みたいな。

フーコーはユートピアを「社会をそのものを完全にしたかたち、あるいは社会を逆さまにひっくり返して表象するもの」と言っているんですね。
現実空間と関係しながら、あらゆる他の空間と矛盾する空間である。

で、ヘテロトピアはユートピアとは異なるが、近い存在として考えられていて、 ヘテロトピアは現実に存在していて、しかし普通の場所とは絶対的に異なる「他なる場所」として、あるいは反場所として区別されているんだと。

で、その異様さによって普通の場所を消去し、中性化し、あるいは純粋化するように定められた場所だ、って言ってるんですね。

かなり意味不明だと思うんですが、現実には普通とは異なる空間があって、しかしそれは普通の空間に影響を与えるということですね。

例えば、男子校や徴兵制、新婚旅行などによる、生まれた家以外で大人になる場所。
また、監獄であったり精神病院、養老院だったりもヘテロトピアだ、と言ってるんですね。
また、中世においては売春宿などもそうであると。

他にも色々ヘテロトピアの例は挙げられてるんですけど、その時の社会のあり方や状況によって、ヘテロトピアはあらゆるところに表出するということですかね。

で、この漫画に戻ると、この2人が死体を埋めてセックスしたこの山も、その時ヘテロトピアになったんじゃないか、と思ったわけです。
ここには、なんのロジックもありませんがそう感じたんですよね。
で、その後2人はすぐに捕まって、それこそ監獄というヘテロトピアに収容されるわけなんですけどね。

共犯関係

で、刑務所の中で、男は犯罪の重さ的に女の子の方が先に出るだろうと考えていて、 最後「待っててくれるかなー」と言うんですよね。
まあ何というか、若者の愚かさを表しているようにも見えるし、また共犯関係による同じ船に乗っている仲間、みたいな感覚を得ているのか、最後までなんとも言えない感覚を味わされますね。

ただ犯罪を抜いた場合での、この共犯関係という関係性の持ち方は、人が異なる存在と共存していく知恵があるようにも感じるんですよね。
僕は、人間社会で最も嫌なのは、共存していく中で同質化を求められることなんですけど、 異質な存在のまま共存していく、これは、こういう共犯関係によって実現できるんじゃないかと感じました。
この共犯関係には何か可能性みたいなのを感じるんですけど、どうなんでしょうかね。

はい。今回は以上です。

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