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漫画とうごめき#16

漫画家・ヤヅさんの漫画作品『My Baby』をテーマに、連想される事柄や文化、思考を綴っていきます。

※このnoteは全力でネタバレをします。漫画『My Baby』をまだ読まれていない方は、まず先に『My Baby』を読まれてから、本エピソードをお楽しみください。


My Baby - ヤヅ | 少年ジャンプ+


あらすじ

漫画の紹介をすると、異形の怪物と、その怪物に育てられて家族として一緒に暮らす女の子の話ですね。
異形の怪物は、狼のような見た目で顔がガイコツみたいになっていて、めちゃくちゃでかい。 パっと見はめっちゃやばい怪物です。
ですが、人の言語を理解して話せるし、女の子を本当に愛して大事にしているめっちゃやさしいお父さんなんですよね。
で、女の子も怪物のことをパパ、と呼んで慕っています。

女の子の両親は小さい頃に殺されていて、 今は怪物と人が入ってこない山の中で暮らしています。
なぜ両親が殺され怪物と一緒に暮らしているのか、 そこについてはある事情があるわけなんですけど、怪物と女の子は本当の親子のように強い信頼関係でつながっているわけですね。

で、そんな2人の生活に変化が訪れて、また別の怪物が現れて、、みたいな感じの話ですね。

もののけ姫やターザンにもあるような人外と人の親子関係、その家族愛を描いた王道な流れを感じる話ですが、クオリティがめちゃくちゃ高くて最後まで引き込まれました。

拡張家族

この漫画を読む中で、家族という概念についていろいろ考えさせられたんですよね。
通常家族と言ったら、夫婦がいてその子供がいて、というものをイメージするわけですが、彼女らの関係性にはそのようなつながりはないわけです。
ですが家族愛とも言える感情が芽生えている。

ここら辺で、まず最初に思い出したのは「拡張家族」という概念ですね。

近年、特にコロナになる前ぐらい、シェアリングエコノミーが一気に市民権を得たように思います。
その文脈で、住むところをシェアする、シェアハウスの潮流というのもより一般的になってきたわけですね。
そういった暮らしをシェアする、というところから出てきた概念が、拡張家族ですね。

現在一般的に認知されている夫婦と子供の関係性をベースとした家族という概念、これを拡張させ血縁以外のつながりで、多人数の家族の在り方を実践している、なので拡張家族というところでしょうか。
で、この拡張家族はCiftというシェアハウスが提唱している概念ですね。 石山アンジュさんなど、著名な方も住まれていることでも有名な場所ですね。

Cift自体は、拠点が渋谷と京都にあって、共同生活したりするメンバーが家族であると。
で、家族になりたい人が入居していくわけで、ずっとそこに住み続けなくてはいけないわけでもないらしいです。
他に住みながらCiftに住んで、とかもありで、ただ我々は家族である、ということが重要なのだと思います。

CiftのWEBサイトをみると、「現代の資本主義の限界や個人主義による疲弊から、新しい時代へと向かうための活動」という位置づけでやっているようですね。
家族という概念を拡張することで社会に影響を与える活動になる、といった雰囲気を感じました。

なので、ドメスティックに閉じられた家族というものを、社会的な活動へと拡張していくようにも感じますね。

MyBabyの中で描かれているものは怪物と人の家族像ですけど、これもまた家族の拡張ですよね。

拡大家族

こうやってみると「そもそも我々が現在当たり前にとらえている家族というのは、絶対普遍な概念なのか?」という疑問も湧いてくるわけです。

また他にも、株式会社Happyが手がける介護付き住宅「はっぴーの家ろっけん」も近いものを感じます。
神戸市にあるシェアマンションで、元々は空き家再生の施設だったそうなんですが、そこに介護機能が付いて子供から若者やお年寄りまで多世代で相互に助け合いながら生活する家になったわけですね。
こちらも、さまざまなところで注目されているので有名ですね。

リビング部分には、入居して住んでいる人もいれば近所から遊びに来る人、シェアオフィス的に仕事する人、学校帰りに遊びに来る人など、地域のリビングになっている。
そして、お年寄りが子供の面倒を見たり子供が赤ちゃんを世話したり、海外から来た人がお年寄りの生活を手伝ったりと、多世代の人々が多様に交わっている。

これもまた、新たな家族の在り方なんでしょうね。

拡大家族というふうにも捉えられますかね。
ただここも、血縁などとは異なる縁でつながった家族ですね。

近代における家族

そういうふうに、現代においては少しずつ既存の家族の概念では捉えられない生活を好んでする人が増えてきているわけですね。

それはかつてあった長屋の風景であったり、村社会でみんなで家を守り、子供を育てるという文化の現代版のようなものが見えてきます。
そういった家族の在り方の変化、というのがここ数年さまざまなところで、草の根的に起きているわけですが、そこの背景にあるのは近代化と共に進んできた核家族の流れ。
その家族構成の形態に限界がきている、という現実があるように思います。

元々人々は集落全体で子育てをしていた、とかって言われますよね。
それは元々、日本人は地域での縁、地縁を大事にしてきたという部分が影響しているのかもしれないです。
家というのは家業を継いでいくための共同体であり、教育機関が発展していなかった中世においては、親から子へという家族で継いでいくモデルが発展していった。
そして家族は家に従属する存在であると捉えられているわけです。

地域というのは、その家同士で構成される共同体であり、そこには相互扶助や共に生きているという感覚が強くあったんじゃないかなと思うんですね。
で、近代化に伴い人は都市部に集まり、家族の形態も夫婦と子供の最小単位で成り立つ核家族へと変化していった。

そして高度経済成長と共に1国1城の主みたいな、家を建てて車を持って、家族旅行をしてみたいなステレオタイプ的な幸せな家族像が支配的になっていった。
結果人々は1個のパッケージに収まって家を構成しだした。
そして人口に対しての家の数を最大化することで、国全体としては経済規模も最大化することができる。
しかし持続的な経済成長を前提としたモデルには、問題が発生していく。
成長は停滞し、資源は有限で、さらには相対的に貧しくなりつつある日本においては、このかつて刷り込まれた幸せな家族像の維持というのが、厳しくなってきている。

そう考えるなら、大人数で共同して生きるあり方を拡張家族とかの概念で、キラキラしたものとしてリパッケージし、この核家族の無理ゲーから脱出する潮流を作るというのはアリだな、とかって思います。

テレクラ

近代における家族や地域の変化を考えていく中で、80年代から今の時代への変化の流れについて、社会学者の宮台真司さんが語っている話が面白かったので紹介します。

DOMMUNEで宮台真司さんとダースレイダーさんが持っている番組があるんですけど、そこで語られた話で、その時はオウム真理教などのいわゆるカルトについて語っている回でのお話ですね。

宮台さんは、70年代ごろまでは老人会や青年会子供会などがあって、それで地域社会のつながりというのは色濃く存在していた。
地域というのは、お互いの顔や名前が思い出せるぐらいの関係性であった。 しかし、80年代頃から老人会を除くそういった会がなくなっていったんだと。
それは既存に住んでいた住民以外の、新住民が現れるようになってきたことが影響しているんだと言われてます。

で、新住民たちは旧住民と違って、自分が住む地域を匿名性を持った地域として認識しているんだとありますね。
地域の近所の人というのは、顔見知りでもないし、近所の誰がと話してもイメージができないですもんね。
ただ旧住民の間では、近所の捉え方が異なっていて、匿名性というのは低かったわけです。

で、そうやって失われていった住民の地縁的なつながりをとどめていた最後の砦が80年代にあると言われてるんですね。
で、それはテレクラだったんだと語ってるんですね。

85年ごろからテレクラが流行し出して、テレクラを通して様々な情事が行われてきたわけですけど、日本中の地方都市においてはテレクラ同好会、みたいな愛好家が情報交換するつながりがあったそうなんですね。
で、彼らは顔を見知った仲として、お互いの情報交換をするそうなんですけど、そこでは
「あの3丁目の豆腐屋の女将と、この前やっちゃったんだ」とか
「あそこのマンションで、いつも車を洗っている若い奥さんと、この前出会えちゃったんだ」とかって話されていく。

そのつながりとは、奇しくも匿名化された地域社会を、顔の見える社会のつながりとして認識させるものになっていたんだというわけですね。

また95年ごろの渋谷で当時援助交際を行なっていた女の子たちに話を聞いた時、渋谷の半分以上の子が当たり前に援助交際をやっているという話を聞いて衝撃を受けたんだとも話されてます。

宮台さん自身は70年代から渋谷にいたのに、自分の知っている渋谷ではない渋谷に出会ったような「この街はパラレルワールドになっているんだ」と衝撃を受けたそうなんですね。

つまり灰色であった地域が、奥行きのある様々な一面のある社会だったんだと気づきを得られたそうなんですね。

逆に80年代の新住民、特に渋谷や新宿のような都会に住み出した人々を指しているように思うんですけど、彼ら彼女らは潔癖症なんだと言われてます。

潔癖症だから、法的に守られた安心便利快適な世界であるべきだとしていき、さらにはどこどこの子とは付き合うなとか、の分断的なことを平気で言っていたんだと。

そう言った流れは各地で起きていて、かつては金持ちも貧乏な子も警察の子もヤクザの子も混ぜこぜで育っていった地域社会、というのは漂白化されていって、「自分達の世界とは異なる世界があるんだ」という体験を、子供の頃にしなくなっていったんだと。
なので、キレイなものも汚いものも存在する社会というものを、かつて受け入れられていた感覚を潔癖症的に失っていったんだ、とあるんですね。
そして、それが当時のカルトであるオウムへの入信であったり、少年犯罪などにつながる系譜とかも語られていくわけなんですけど、これはなかなか興味深かい話しでした。


確かに、それこそ育った地域を出たり、海外を行った経験の時初めて社会が拡張した、という人は多いんじゃないかなと思います。

潔癖症

で、この潔癖症がかなり根深いと思っていて、 既存の家族の在り方には限界がきているのにその潔癖症的な感覚が染み付いている現代の我々は、薄々感じていながらもそこから抜け出しにくくなっている、というのがあると思います。

そこから抜け出すには、今とは異なる世界があり 、決して我々の生きている世界は綺麗なものだけではなくて、汚い部分も大いにあるんだと受け入れることだと思うんですね。
この受け入れるリテラシーが、家族の概念を拡張するヒントになるんだと思います。

なので我々は、核家族的な社会的価値観や倫理観が染み付いている。
家族外の人たちと共同生活するだったり、血縁ではない縁による家族というのをどこか穿った見方をしてしまう感覚がある。

ただその自分達が持っている感覚は、普遍的でスタンダードなものではないので穿った視点で見てしまうのも、ただの共同幻想であって、いくらでも書き換えることが可能なんだということですよね。

言葉を変える

かつては家族という概念を血縁という、家を継ぐことの理由づけをしやすいもので理解していて、 それが結局現在まで続いているのだとしたら、家族という概念自体を変えていくのは手っ取り早く感じますね。
言葉を変えることで概念を与えることで、人はリテラシーがなくとも、見える世界を変えられると思うんですね。

最近だったら仮想通貨や暗号資産、という怪しいイメージがついたものを、WEB3という言葉で見事にリブランディングして、キラキラしたものに変えたという事例であったりですね。

家族においてはそれが何か。
拡張家族なのか、拡大家族なのか。
もしくは「家」ではないのかもしれない。

ここは今後も考え続けたいテーマですね。

また、漫画の内容に戻ると、MyBabyでは家族は家族でも、人ではない自然界に存在する謎の怪物が家族になっている。
これは#15の、人だけで社会を捉えることに、限界がきている話にも、通じることなんだと思うんですよね。

人間中心主義的な既存の人間社会ではなく、人外も含めた生態系として人の生活を見ていくみたいな話ですね。

生態系へのジャックイン展

そこで象徴的なのが、ありうる都市のあり方を問うリサーチチーム「Metacity」が、去年開催した展覧会「生態系へのジャックイン展」ですね。
日本庭園という人工的自然を再構築し、そこに茶の湯の世界観になぞらえて、様々なアーティストの作品を配置するといった展示会です。
ステイトメントでは、
理想化された電脳空間でも、素朴な自然世界でもない、様々な認知世界が響き合う場であり、同時に茶の湯が追い求めてきた、幽玄の思想を継ぐものとなる。
互いの認知世界を交換しあう、あらたなる生態系へようこそ。
とあります。

ここではメディアアーティストから、バイオアートや、また人の行動の重なりから作品を作る社会彫刻的な作品など、まさに人間社会で考えられるものを超えた領域、生態系とも言える世界観が構築されていルわけですね。

そしてその生態系へジャックイン、没入するんだと。

この中で「Bio Sculpture」という活動が面白いなと思います。
最近賞も受賞したらしいですが、自然を3Dプリンタで再構築するみたいな作品ですね。
作品は現地の環境特性に対応しながらデザインしていき、自然素材を出力素材とすると。
で、3Dプリンタによって、内部構造を付与することで能力を拡張した「環境マテリアル」を使用して作成される作品です。

人々はBio Sculptureを愛で、崇め、手入れし、壊すといった一連の過程を通じて、生態系の奥へと没入していくのだ、とあります。

僕も北九州未来創造芸術祭で、この作品を見たのですが、そのあり方には人工的なものと、自然的なものの境界線がぐにゃっとなっているような何か不思議なものを感じたのを覚えてます。

我々は、人間社会ではなく生態系で生きていくのだ。という、何か今後の都市の在り方を感じましたね。

で、家族というのは結局人と人との関係性、人間社会をイメージするもので、そこには人外を含んだ生態系、という意識は低い。

この人間社会の人間という言葉には、人と人との関係性や世間、みたいな意味があるらしいんですね。
関係性を強調する意味で、人と間が合わさって人間という。

で、家族とか人外とかのことを考えていった結果「我々は人間である、という自己認識の概念自体が限界を迎えているんではないか」とかって思ってきたんですよね。

論理の飛躍にも見えると思いますが、ちょっと考えていることを話してみます。

うごめきという概念

例えば、人は言語によってコミュニケーションをとるわけですね。
で、言語でつながる相手には、感情であったり配慮をするわけだが、 言語でつながらない相手にはその意識が欠如していくんだと思います。

そういった感じで、その場の主流派にとって都合の良い存在だけが残され、そうではない理解し得ない存在は、バカにされ距離を置かれ排除される。
もしくは、過度に擁護されわかるフリをされ、自分の尊厳アピールに利用されるという構図が、理解できるを前提とした社会では出てくるんだと思います。

そうであれば人外の存在も含んだ社会のあり方というのを考える必要があって、 それには人、という存在も人間ではない別の概念で、自分達を表す概念が必要になると思うんですね。

そうすることで、分かり得ないへのリテラシーが低くとも既存の意識を飛び越えられるんじゃないかと。

で、人間に代わる概念、人外を含めた我々を表す概念はなんなのかというと、それはこのPodcastのタイトルでもある「うごめき」ではないかと思うんですね。

人と人の間ではなく、万物が相互に影響を与え、存在を変異させながらうごめいている。
そんなイメージで、うごめきです。

なので、うごめきとは人間にかわる、我々を表す概念であって、
我々はうごめきであり相互に分かり得ない存在である。という認識ができる。

このうごめきという自意識について探求することで、人を超えた社会について考えまたドメスティックな家族、という概念を拡張するのかは分からないですけど、今の時代にあったあり方へ、アップデートできるように思うんですね。

なので、このMyBabyの怪物と女の子も、人の家族ではない、うごめきの家族ではある、と言えるわけです。

なんかよくわからない話になってきたかもしれないですが、うごめきという概念については、今後もちょこちょこ語っていくと思います。

ということで今回はMyBabyから、家族の在り方の変化や今後の可能性、人間とは異なる人の概念、うごめきについて話しました。


Podcast版はこちら




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