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やがて 『とろとろしたうごめき』 が波及する未来。

『とろとろしたうごめき』とは、『客観的美質性』の客観性を証明する概念である。

『客観的美質性』とは定量的な指標ではあらわせない、ぼんやりした部分を美しさ(おもしろさ)によって認知できるようにした概念である。正しさやべんりさは、美しさに包摂される。(べんりな美しさ、まとまった美しさなど)


「内容量300mlのグラスに水が180ml入っている。」
この情報は定量的な指標であり、とくに意味はない。

「内容量300mlのグラスに水が180mlも入っている。」
この情報には人の感性による意味がふくまれている。“のこさない美しさ”かもしれないし、“元にもどす美しさ”かもしれない。

「内容量300mlのグラスに水が180mlしか入っていない。」
この情報にも人の感性による意味がふくまれている。この感性は“満たされている美しさ”かもしれないし、“潤沢な美しさ”、“ととのっている美しさ”かもしれない。

こうやって美しさ(おもしろさ)によって意味を認識することで、定量的な指標だけでは読み取りづらい感性の部分を認知しやすくするのが美質性である。

しかし、感性は人それぞれ。これを客観的な指標にするにはどうするのか?

「感性に対して客観性を証明するのは不可能ではないか。」
「誰もが同じ感性であるわけないし、誰もが同じ感性で生きていくのってなんかイヤだしつまらない!」と思うかもしれない。

そもそも『客観的美質性』を定義する意味はなんなのか?

それは人の感性が人それぞれ異質であるながらも調和している状態に価値をみいだすため、と僕は考える。その価値のある状態が『とろとろしたうごめき』なのである。


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『客観的美質性』における客観性は、その美質性を感じた人たちの感性のバランスで定義する。


例えば、目の前に以下の絵があるとする。

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「この絵に対して自分はどんな美しさ(おもしろさ)を感じたか?」

この問いの答えがその人にとっての美質性、『主観的美質性』となる。

例えば、“カラフルな美しさ”や“かわいい顔の美しさ”、“つやつやした美しさ”、“影響し合っている美しさ”などの『主観的美質性』が出てくるかもしれない。また「そもそも美しさを感じない」という人もいるだろう。

この中で仮に「“カラフルな美しさ”を感じた」という人が複数人出てくるとする。その複数人の感性のバランスで客観性を証明するのだ。

その複数人の感性がみんな似通っていたばあい、この絵の“カラフルな美しさ”は単に同質性がたかいだけで客観性に欠けるようにおもう。同質性が高いばあい、それは定量的な指標に飲み込まれる。「カラフルであるのが正しい」だけなのだ。

ぎゃくに複数人の感性がまったくバラバラだった場合、この絵の“カラフルな美しさ”は一見すると客観性がありそうだが、ここに客観性を認めてしまうと大衆性が良しとなり、やはり定量的な指標に飲み込まれる。「みんながいいと言ってるからいい」となる。

どちらにせよ、場の意味に支配されるのだ。

では同質性にも大衆性によることもなく、客観性を定義できるバランスとはなんなのか。
これはまだボク個人の感覚値のはんいではあるが、「感性的同質性のたかい人が25%ていど、感性的異質性のたかい人が75%ていどのときに、客観性が存在する」と感じる。
これは“カラフルな美しさ”を言った人それぞれの視点から見て、このバランスであること。このバランスのとき、場の正しさでは認知できない領域の客観性が証明される。

しかし、ただ感性のバランスが2.5:7.5になっていればいいのか?

それだけではどこか不十分な気がする。

たまたま感性のバランスがちょうど良い状態であるだけでなく、「この感性たちがかんぜんに混ざらないレベルで影響し合い、お互いに形が変化している状態が必要ではないのか」。それは調和している状態とも言える。
僕がこう思う理由は自分でもよく分からないのだが、「人は相互に作用して存在するうごめきだ」と感じているからかもしれない。

なので感性のバランスが2.5:7.5ぐらいでありながら、おたがいの感性たちが完全に同質化しないていどに調和している状態を『とろとろしたうごめき』と呼ぶことにする。

この微妙な感じで調和する方法とは、自らの感性の形を変化させ余白をうみ、異なる感性が余白に流れてくるのを受け入れることだと感じる。
もうすこし具体的に言うと、自分と異なる感性に出会ったときに自分の感性のハンイですぐに判断するのではなく、その異なる感性をそのまま受け入れること。そして対話をしながらその異なる感性を認知しようとすることなのだ。
また、自分の認知している世界や価値観は『全体』ではないと意識することも重要である。
すぐに判断はせず、宙ぶらりんにしておく。
この調和のバランスが『とろとろしたうごめき』なのである。

この『とろとろしたうごめき』によって示された美質性が『客観的美質性』となる。

人の感性はお互いに影響を与えながら変化していく。つまり感性のバランスも常に変化していくのだ。
感性のバランスが変化したとき、今までは『客観的美質性』と証明されていた美質性が『客観的美質性』ではなくなる場合もあるし、その逆もありえる。『客観的美質性』を証明し続けるには、つねに異質な存在をうけいれてうごめき続けることだ。

この『客観的美質性』に価値が生まれ、経済のようなものが回りだしたとき、異質を受け入れる価値観が生まれる。
多様性という概念では到達できなかった領域に、人の価値観をアップデートできる可能性があるのだ。

「正しく伝えて拡散/浸透させるのではなく、影響を与えて波及/循環させる」


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ちなみに『客観的美質性』の具体的な価値とは、『客観的美質性』が存在するところに人が集まり、いごこちのよい営みの場になりえることだとボクは考えている。営みの場となれば、そこに“足りている美しさ”が芽生え、それが豊さとなるのだ。

また「そもそも人の感性をどう可視化するのか?」という問いもある。
そこに関しては、感性のプロフィールみたいなものを作るといいのではないのかと考えている。ある対象を選択して「この対象にどんな美しさ(おもしろさ)を感じるか」を表現する。その表現のポートフォリオがそのまま自分の感性のプロフィールになるのだ。

このプロフィールによって「自分がどんな美しさ(おもしろさ)を感じるか」を言い合う文化も生まれる。この行為は『愛でる』行為となり、愛のエネルギーのようなものが生まれる。これが波及すれば愛の経済になるかもしれない。


以上が『客観的美質性』と『とろとろしたうごめき』という概念の紹介である。

さいごに、ふたつの概念を表現した絵を載せて終わりにしたいと思う。


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「この絵にあなたはどんな美しさ(おもしろさ)を感じましたか?」






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