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今こそ”一緒に暮らす“のアップデートをする時だ。

”一緒に暮らす“とは、どういうことなのだろう。


物理的に一緒に暮らすことなのか?

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先月訪れたゲストハウスで感じた高揚感と安心感は、あの場にいたからこそ得られたものだ。あの場で、あのタイミングで、あの行動を選択し、あの人達と過ごしたからこそ得られた豊かさだ。
日本は世界的にみると経済的に豊かな国だが、幸福度が低い、精神的には豊かではない国といわれている。
安心感を追求していった結果、そこには便利さという箱だけが残り、肝心の中身を失っていたのかもしれない。形骸化というやつか。


”一緒に暮らす“で感じる豊かさは、安心感に起因すると思う。
“一緒に暮らす”とは、多くの場合、家族や近しい人と一緒に暮らすことだと認識されている。
そこには間違いなく豊かさが存在するのだが、現代の仕組みはそれを感じにくくさせられている。

安心感だけでは、人は思考停止に向かうばかりで“そこ”に存在する豊かさを認知できなくなる。
不安という概念が存在することで、人は安心を感じることができるのだ。しかし、不安は突然訪れるし、意識しないと飲み込まれてしまう。
なので、人は高揚感を求めたり、何かに期待するのかもしれない。
その安心感と高揚感を両方感じた時、初めて豊かさを認識していくのだろう。

最近、家族以外の人とも一緒に暮らす人が増えてきている。
現代の仕組みの中で、”一緒に暮らす“の概念がアップデートされてきているからだと思う。
しかし時代を遡れば、それは当たり前の生活だったりもする。

豊かさを感じにくい現代の流れは、その過去の当たり前を否定していった結果であるし、今に至っては到達できない所に行ってしまった。
しかし、もしかしたら今は”一緒に暮らす“をさらにアップデートするときなのかもしれない。


では、いかにアップデートするのか?


それは、分断されたリアルの世界にベタッとくっつくような、ウェットなオンラインの世界にヒントがあると思う。
そこには、子供の頃経験したような遊び心と好奇心、ちょっとしたいたずら心が存在する。
非言語コミュニケーションによって世界とつながり、自分の世界に影響を与えてくるものだ。
そうやって境界が曖昧になった世界からは、お互いに認知しているという安心感と、自分の世界が拡張される高揚感が存在する。

その豊かさを感じたとき、”一緒に暮らす“はアップデートされる。


僕の実験に協力してくれた全ての人に感謝。
そして今後の動きに期待してください。


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