嫌・花見人間のぼやき

 この時期になると木の下に人が多く集まるようになる。皆様お馴染みの桜を見に行くわけだ。二週間くらいで散ってしまう花を見に人が集まる。これがよく分からない。1年のうち2週間くらいしか楽しめないということはそれ以外の時期は葉がついていたり落ちていたりするということになる。つまり50週間の方がデフォルトであって2週間はバグみたいなものである。その異常を祭りのように楽しむというのがよく分からない。

 あと桜を見ているはずなのに「花見」などというそれが花の代表、全てかのような言い方をしている所がおかしい。前に桜を見る会とかいうイベントが話題になったが、あれは呼称だけ見たらよっぽど花に対して誠実である。私達は桜を見る。花見などという言い方はしない。そういう思いが篭っているのかもしれない。

 桜にしか出店が出ないのもおかしい。タンポポとか、シロツメクサに出店が出たっていい。そもそも桜でしか金を動かせるような感情を動かせないと考えている気がすることが腹立たしい。道に咲く花に対して普段何を考えて生きているのか。彼ら、彼女らが発する息を呑む緊張感に気付かないのか。そこに金の動きを見出すような人はいないのか。

 あと、花見が嫌いだと言った時に動く会の会員i君が「そもそもお祭りが好きという点ではここにいる人も動く会も同じなんだからあまり言い過ぎると自分に返ってくる」と言っていた。
 
 はっきりと、ああこいつは莫迦なんだと、心の底から軽蔑したのを覚えている。私をここまで失望させて、殺されたいとでも思っているのかとも考えた。

 まず祭りが好きで動く会をやるという考え自体がおかしい。ああなんか生きているとひたすら悩みが湧いてきて困る困る困るだから動いてみてちょっとぼやかしておこうというのがテーマだと思っている。

 昔の部誌で、動く会は人間哲学サークルだと言った人がいた。悩みに雁字搦まる前に、花見が嫌いで桜を切り倒してしまう前に、とりあえず吐き出しておいてその勢いで何かしようという、エゴイストのサークルである。

 ミッシェル・ガン・エレファントのある曲の歌詞で、『流れ星は野蛮人の祈り』という一節がある。理由は消えていくものに憧れているだけだからである。その視点でいくと、私達は全員野蛮人だ。いつか消えていくものに心動かされて生きている。仮に永遠に憧れている人がいたとしても、そいつも死んでしまうから似たようなものだ。野蛮なら、心の赴くままに生きていたほうがいい。そっちの方が楽しい。

 私は、この文章を本気で書いているしここに書いたことが私の根幹だと思っている。花見が嫌いだということに、気管が割れるような苦しみを持っている。実はこのサークル苦しいことの方が多かったりする。ポップに終わることはない。だから、よく分からないことに悩んでいる人も見学に来てほしい。ヒントが生まれるかもしれない。

 この文章を花見への宣戦布告にしようと思ったら、色々な所に話が飛んで大変なことになった。やはり怒りに任せて文章を仕上げるものでない。次はもっとスマートでクールな文章を上げたい。

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