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夢幻鉄道 あやと森の光

前書き
僕は昭和62年生まれで、父はサラリーマン、母は専業主婦でした。母は毎日家の掃除をして、家族全員の食事の支度をして、僕の相手をしながら父の帰りを待っていました。家事や子育ての大部分は女性の仕事だったわけです。子供の頃、僕の周りにも似たような家庭が多かったように思います。
大人になった僕は、同世代の女性と結婚し、2人で家庭生活を送っています。僕も妻もフルタイムで働いているので家事を分担し、日常の出費も分担しています。生まれ育った家庭とはだいぶ違う役割分担で家庭生活を送っています。
ここ数十年で家族のあり方は大きく変わりました。「男は外で働いて女は家を守る」と言う昭和的な価値観は、現代人のライフスタイルに必ずしもマッチしているとは言えません。では、現代人にマッチしたライフスタイルとはどのようなものなのか?これは、正解の無い問題です。家庭の中の対話で自分達にとっての最適解を見つけるしかないのだと思います。
ところで、この最適解を見つける過程で、つい自分を追い詰めてしまう人もいるようです。特に責任感が強い人や、対話の苦手な人は、たくさんのことを抱え込んでしまう傾向が強いように思えます。
「私が家事全般をしないといけない。」
「私が子育てをやらないといけない。」
「仕事もきちんとしないといけない。」
自分に多くのものを課し、それが完璧にはできずに苦しみ、自分のことをふがいなく思うことも多いように見えます。
「この人が好き」とか「この人と一緒にいたい」といった至極単純で人間臭い動機から家庭を持つことにしたはずなのに、家庭で発生する様々な出来事への対応に追われ、いつの間にか自分を役割で測るようになってしまうのです。
この小説の主人公「綾」も同じです。年齢こそ、まだ小学生ですが、真面目な性格と母親の病気によって一気に「役割の世界」に叩き込まれます。
「良い子にしないといけない」
「パパやママに心配をかけてはいけない」
「病気のママに代わって家のことをしないといけない」
「勉強をして、友達もたくさん作らないといけない」
そんな、ギスギスとした役割の世界で苦しむ「綾」は、不思議な世界で素敵な女性と出会い、仲間をたくさん作ります。「役割の世界」ではない、「好き」や「楽しい」でできた世界を「綾」は旅するのです。
この物語を、「役割の世界」に疲れたすべての人に送ります。
「綾」が旅する不思議の国は、ほとんどすべて西野亮廣さんの絵本や、各種取り組みから着想を得ました。またこの物語の核になる素敵な設定を生み、僕達が自由に使えるようにしてくれたのも西野さんです。西野さん、どうもありがとうございます。




あやと森の光

私の12歳の誕生日会は、あまり楽しいものではなかった。エミちゃんや、マコちゃんや、他に何人かの友達を、家に呼んで開いたのだけど、私の家はエミちゃんやマコちゃんの家より2回りくらい狭い。エミちゃんやマコちゃんの家では皮の匂いのするきれいなソファーに座って、ガラスのローテーブルに所狭しと置かれたお菓子やケーキを食べる。大きなテレビで映画を見て、ソファーでお昼寝をしたりする。私の家では床に直接座って、ちゃぶ台に並べた手料理を食べる。私は別に嫌じゃないんだけど、ママは少し恥ずかしいみたいだ。それでいつもより頑張って料理をしてくれる。普段は絶対作らないキッシュとか、きれいに型抜きしたサンドイッチを作る。大きな紙皿に、ハートや星の形のサンドイッチが並ぶのはきれいだったけど、私はいつもお母さんが作ってくれる晩ごはんの方が好きだ。ごろごろとして少し焦げたハンバーグとか、ドロドロにトマトが入ったハヤシライスとか。エミちゃんやマコちゃんは、少し気取って紙ナプキンで挟んでサンドイッチを食べていたので、私も真似してみた。私の家で、自分が主役の誕生日会なのに、なんとなく居心地が悪い。本当よりおしとやかで、お上品な女の子を演じているようで、胸の奥がなんだかむずむずとした。お誕生日会が終わると私はなんだかほっとした。味のしないサンドイッチも、お上品な女の子のふりも大変だった。
「早く卒業したいな。」
思わず声が漏れた。来年の春、私は小学校を卒業する。私の通うのは私立の小学校で、生徒はみんな中学受験をする。だからみんなバラバラの中学に進学する。エミちゃんやマコちゃんは嫌いではないけど、ずっと一緒にいるのは結構大変で、私は早く別々の中学に進学したかった。中学生になったらサンドイッチを紙ナプキンで挟まずに、むしゃむしゃと一緒に食べられる友達をたくさん作ろう。コンビニに寄って買い食いをしたり、ジュースを回し飲みしたりする友達をたくさん作ろう。肩の凝りそうな誕生日パーティーの後、私はそんな思いをさらに強くした。

***

パパの仕事の都合で、生まれ育った北海道を離れ、東京で暮らすようになってから私達の生活は少しとげとげしくなった。私が幼稚園の年長さんの頃の話だ。私は「お受験」をしたのだけど、そこはお医者さんや会社の社長さんの子が多いような学校だった。私の生活は急にあわただしく、無機質なものになった。北海道にいた頃、私は一日中日向ぼっこをするのが好きな、のんびりとした性格だった。短い夏の間、はだしになって、木の根を枕に昼寝をすると、木や土と自分が一緒になるような温かい気持ちになったものだ。でも、東京に来て、塾に通い始めるとそんなゆっくりした時間はなくなってしまった。塾に行ったり、授業の予習復習をしたり、エミちゃんやマコちゃんに予定を合わせて一緒にいるので忙しい。パパは仕事が忙しくなって、あまり私と顔を合わせなくなった。私が起きる頃にはもう会社に行って、私が寝た後に帰ってくる。休みの日以外、パパに会えないことが多かった。ママはもともと専業主婦でずっと家にいたはずなのに、東京に引っ越してからは仕事を始めた。北海道にいるときはお化粧なんてしたことがなかったのに、今は毎朝きれいにお化粧をして高いヒールの靴を履いて仕事に向かう。私は、それなりに友達もいて、それなりに楽しい小学校生活だったけど、ママにとっては大変な5年間だったみたいだ。授業参観やPTAの集会の後、ママは私が見てもわかる位疲れて元気がなくなっていた。ママが体調を崩すことも増えた。北海道にいた頃、風邪ひとつひかなかったママがいつもだるそうにして休みの日は昼まで寝ていたりする。ママは私が学校で楽しく過ごせているかをものすごく気にしていた。
「友達はたくさんいるの?」
「いじめられてない?」
「学校は楽しい?」
心配そうな顔でそう聞かれると私はにっこり笑って答えるようにした。
「友達もたくさんいるし、うちの学校にはいじめなんて全然ない。だから毎日楽しいよ。」と。
でも本当は少し疲れちゃうんだ。エリちゃんやマコちゃんの真似をして、エリちゃんやマコちゃんと同じ人のように過ごすのは結構大変で、学校に行きたくない日もたまにあった。でも一生懸命頑張るママにはそんな事は言えない。私1人だけの秘密にしていた。卒業するまでのあと1年弱、学校ではあまり目立たないようにしてやりすごそう。家ではママに心配をかけないようにニコニコして勉強も頑張ろう。それで中学受験も頑張って中学校に入ったらたくさん楽しいことをしよう。そんなふうに私は自分を励ましていた。

***

私は別に勉強が好きではなかったけど、テストではずっと良い成績をとり続けた。中学受験をするのが楽しみだったし、良い成績を取るちゃんとした女の子でいるとママが喜んでくれるから。だから6年生の春、学習発表会の準備をする時も、私は大忙しだった。私たちの班は、社会科で習った日本の歴史をまとめたのだけど、資料作りは半分以上私がやった。私は教科書の内容をよく覚えていたし、塾で習った難しい内容も上手に混ぜて資料を作った。でも学習発表会の時みんなの前で発表したのは同じ班にいたエミちゃんだった。
「綾ちゃんは資料作りをたくさんやってくれたから、発表は私達がやるね。」
エミちゃんにそう言われて私は何も言えなかった。少し笑ってうなずくだけ。エミちゃんは私より勉強ができないけれど、人前で話すのがすごく上手だ。よく通る声でハキハキと話す。それに何よりすごく可愛い。私より10センチ位背が高くて、目鼻立ちがパッチリしている。だから男子にも女子にも人気があって、みんなエミちゃんの発表を真剣に聞いてくれた。私はその後ろに立って、エミちゃんの発表を聞いていた。私はエミちゃんと違って背が低いし、ちんちくりんのくせ毛にいつも悩まされていた。毎朝一生懸命とかしても、昼過ぎになると広がってしまうこの髪のせいで私は人前に出るのがとても苦手だ。だから私のかわりにエミちゃんが発表するのは別に嫌じゃない。私は資料を作ったり内容を考えたりするこつこつとした作業が好きで、エミちゃんのように上手な発表なんてできない。でもなんとなく寂しかった。一生懸命資料作ったのは私なのに、みんなの前に出て褒められるのはいつもエミちゃん。私はエミちゃんやマコちゃんの真似をしていつも2人を追いかけているのに、2人みたいには全然なれない。そんな私を尻目に、2人はいつも当たり前のようにキラキラとしている。私ももっと一生懸命頑張れば2人みたいになれるのかな?人前で話す練習をしたり、牛乳を飲んで背を高くしたり、ちんちくりんの髪を一生懸命とかせば、エミちゃんやマコちゃんのようになれるのかな?ハキハキと発表するエミちゃんの後ろ姿はなんだかまぶしくて、私はわけもなくみんなの前にいるのが恥ずかしくなった。エミちゃんの発表がだんだん耳に入らなくなる。私は手に変な汗をかきながら発表が終わるのを待っていた。

***

学習発表会が終わった日の放課後、私は生まれて初めて塾をサボった。なんだか無性に1人になりたかったのだ。エミちゃんにも、マコちゃんにも、塾の先生にも、ママにも会いたくない。どうしてと言われても答えられないけれど、どうしても塾に行きたくなかった。一生懸命勉強して、ちゃんとして、ママを喜ばせる。一生懸命勉強していい中学に入る。一生懸命勉強して良い成績を取る。そういうことがとても大切なことだとわかっているのにどうしても塾で勉強する気になれなかった。学校からの帰り道にある公園、ささくれの目立つ木のベンチに気をつけて座った。昼は過ぎているけど夕方と言うには早い、そういう時間だった。暖かい柔らかな日差しに照らされるけど私の気持ちは晴れない。
「つまんないなぁ。」
思わず言葉が漏れる。どこがどうつまらないと言うわけではない。いじめられているわけではないし、友達らしき人も何人かいる。成績も悪くないしママもパパも私のことを大切にしてくれる。でも何か足りない。私はエミちゃんやマコちゃんみたいにはなれない
「はあーあ」
太い太いため息が漏れた。ふと、お尻にもぞもぞした感触があり、ベンチの上を振り返ると猫がいた。大きい。モコモコに太った猫。白と茶色のバサバサした毛並み。お金持ちの家にいるような綺麗でスリムな子じゃない。不機嫌そうな表情をした短足の野良猫が私のお尻の横で丸くなっていた。
「あ、かわいい」
そっと背中を撫でてみる。逃げる様子は無い。首輪はしていないけれど、ずいぶん人間に慣れている。
「おいで」
思い切って私は太った猫の体を抱きかかえ、膝の上に乗せてみた。逃げる様子はない。日の光を浴びて気持ちよさそうに目を細める。ホカホカとしたぬくもりが伝わってくる。小さな命が私に全てをゆだねてくれている
「どこから来たの?この辺に住んでいるの?」
当たり前だけど返事は無い。それどころか私のことを無視して眠りかけている。気ままな猫。
「お前はいいね。寝たい時に寝て、行きたい時に行きたいところに行って。」
モフモフの背中を撫でるとゆっくりとした呼吸が伝わってくる。
「少し一緒にいようか」
そう言って私も目を閉じた。太陽の光が透けて見える。瞼の裏が赤く染まる。なんだかすべてがどうでも良くなってきた。暖かくていい気分だ。塾をサボった罪悪感もあったけど、私は久しぶりにのんびりとした気持ちになっていた

***

電車の音で目が覚めた。辺りは真っ暗。街灯と電車のヘッドライトだけが公園を照らしていた。しまった!今何時だろう?眠りすぎてしまった。あたりは暗くなっていて、塾にはもう絶対に間に合わない。ママが帰ってくるまでに家に帰らないと心配をかけてしまう。慌てて立ち上がると膝の上から何かが滑り落ちた。
「にゃー」
太った猫が地面の上で恨めしそうに私を見る。
「ああ、ごめんね。お前も今まで寝てたのね。」
不機嫌そうな目でしばらく私を見るとプイとそっぽ向いてスタスタ歩き始める。公園に止まっている電車に向かって短い足をトコトコと動かし歩く。
電車?
アスレチックや鉄棒のように当たり前に公園に電車が停車している。電車を模した遊具ではない。本物の電車だ。乗客も乗っている。さっきまで私の膝の上で寝ていた猫が、スタスタと歩き当たり前のように電車に飛び乗った。あれ?猫が電車に乗るの?どこかに行けるの?私は夢中で追いかけた。もしかしたら少し寝ぼけていたのかもしれない。ふわふわの猫を追いかけて電車に乗り込む。さっき公園のベンチにいる時と同じようにシートで丸くなる猫。その隣に腰かけた。ドアが閉まる。ガタゴトと音を立てて電車が走り出す。あれ?どこに行くのだろう?電車は見えないレールの上を走るように空に飛び立った。驚く私をよそに気持ちよさそうに眠る猫と何も言わない乗客。何もわからず乗っているのは私だけみたいだ。全員が前を向き、何もしゃべらない。全然動きもしない。窓の外の星を見ながらだんだん私は心細くなっていった。

***

電車が止まるとそこは森の中の駅だった。駅といってもただコンクリートでできたホームと、ほんの小さいベンチがあるだけ。駅舎もない。改札もない。駅を取り囲む木々に提灯がつるされていて、夜なのに昼のように明るかった。私の隣に座っていた野良猫はするりとシートから降りてホームに出る。
「え…待って…」
必死に追いかけて、私もホームに出た。この猫はもう何度もここに来たことがあるみたいだ。戸惑う様子もなくスタスタと進む。駅を出るとそこには不思議な光景が広がっていた。夜市か縁日のようだ。広い通り道の両側にたくさんの出店や露天が並んでいる。たくさんの人でごった返している。ほとんどが大人だが、私と同じ位の年の子供もいた。空からはオルゴールの音が鳴り響いて、あたりの人はひどく浮かれているように見えた。人混みの苦手な私は少し心細くなってきた。射的やルーレットのような遊びのお店や、おもちゃのお店、太ったおじさんが本を売ってる店、それに見たこともない何かを売っている店。数え切れないほどのお店が提灯に照らされて並んでいる。
「ここの本は全部しるしつき。前に読んだ人の想いが詰まっている。さぁ読んでくれ。そして読んだあなたもしるしをつけて僕のお店に売りに来てくれ。僕はいつもは森の奥、ずっと向こうの木の下で本を売ってる本屋のポンチョ。」
太ったおじさんのだみ声が響く。
「体がゴミのゴミ人形。少し臭いが効果は抜群。てるてる坊主の代わりに家に置けば、きっときれいな星が見れる。」
地面に敷いた紙の上で、ゴミでできた人形を売っている露天商が怒鳴る。
「お嬢ちゃん、コーヒーは飲める?よかったらどうぞ。」
そう言ってコーヒーショップのお兄さんが紙コップに入ったコーヒーを渡してくれた。つい受け取ってしまったのだけど、そこで私は「あっ」と思った。
「あの…すいません…コーヒーはいりません。」
「ああ、まだ子供だしコーヒーは苦手かな?」
「そうじゃないんです。私お金を持ってない…。」
学校の帰り道にそのまま来てしまったので私は教科書以外何も持っていなかった。
「大丈夫。ここではコーヒーはただなんだ。お金は要らないからさぁ飲んで。それにね、ここでは普通のお金は使わないんだよ。」
そう言うとにこっと笑って、別のお客さんのほうに行ってしまう。コーヒーがただ?普通のお金を使わない?どういうことだろう? ふと、あたりを見回すと野良猫がいなかった。
「あれ?」
どうしよう?はぐれてしまった。知らない街でたった1人になってしまった。あたりは私よりずっと背の高い大人ばかり。みんな夜市に夢中で話しかけづらい。明らかに酔っ払っているおじさんもいる。お金も持っていない、帰り道もわからない。私は急に心細くなってきた。

***

私は夜市の雑踏を離れ、森の少し奥に進んだ。大きな木の根に腰掛ける。
「どうしよう…」
暖かいコーヒーを飲むけれど全然落ち着かなかった。私は泣きそうになるのをじっと堪えた。小学6年生にもなって迷子になった。その恥ずかしさと心細さで胸がいっぱいになっていた。いったいあの夜市はなんだろう?どうやって帰ればいいんだろう?塾もサボってしまったし何よりそろそろママが仕事から帰ってくるはずだ。ママに心配をかけたくない。我慢できずにポタポタと涙が落ちてきた。寂しい。怖い。帰りたい。恐怖のあまり訳もなく叫び出しそうになったその時、足元にもぞもぞとした感触が伝わった。見るとさっきはぐれた猫がいる。
「あ…あなた」
涙を拭いた私の耳に、女の人の声が響く。
「孔明~。待ってよ~。どこまで行くの~」
声のした方を見ると女の人がいた。遠くの提灯に照らされる黒い長髪の女の人。
「あら?はじめましての人?孔明につられてこられたの?」
裾がふわふわした黒のブラウスとほっそりとしたデニム。背が高い優しそうな瞳をした女の人だ。
「1人なの?迷子になっちゃったかな?」
優しい笑顔で聞いてくれた女の人に私は思わず抱きついた。私の気持ちがわかるかのようにそっと抱きしめてくれる。
「怖かったね。大丈夫。もう大丈夫よ。」
そう言われて涙がこぼれてきた。見慣れた猫と優しそうなお姉さんに会えて心底安心したのだ。

***

女の人は千尋さんと名乗った。私のママよりは年下。でもいとこの大学生のお姉さんよりは年上に見えた。一緒にいる猫の名前は孔明。千尋さんが可愛がっている野良猫だそうだ。
「この子はね、いつもいろんな人をこの世界に引っ張ってきちゃうのよ。」
千尋さんの膝の上で孔明はスヤスヤと眠っている。私たちは木の根に座って話していた。千尋さんの吸うタバコの煙が木々の奥の星空に吸い込まれていく。
「あの…この世界って?」
「不思議な電車に乗ってきたでしょ?あれはね、夢幻鉄道っていうの。夢と現実をつなぐ電車なの。」
「……」
「あのね、驚かないで聞いてほしいんだけど、ここは私の夢の中なの。」
「夢?」
「そう。夢。現実世界の私は今ぐっすり寝てるわ。」
そういう千尋さんの目は優しいけど真剣で、私をからかっているようには見えない。
「不思議な世界でしょう?私の大好きな絵本の世界。素敵な森があるし、大きな時計台もある。おとぎの国ね。」
「絵本の世界?」
「そう。私の大好きな絵本があってね。好きすぎてしょっちゅう夢に出てくるの。ここはその絵本の世界。ここにいる人は私の知り合いか、その絵本を気に入ったファンの人達ね。夢幻鉄道に乗って、いろいろな人が来てくれるけど、優しい人ばっかりよ。」
そう言うと千尋さんは私を見た。優しい目。この人には何でも話せてしまう気がした。
「綾ちゃんはさっき泣いていたけど、全然怖い世界じゃないから安心して。そうだ、綾ちゃん、おなかすいてない?」
そう言われて私は自分がひどくお腹を空かしていることに気づいた。学校で給食を食べて以来何も食べていない。今まで不安と興奮で全然気付かなかった。
「少し空いているかも…」
そう言った途端に私のお腹がぐるぐると勢いよくなった。恥ずかしい。
「決まり。ちょっと食べに行こう。ついてきて。」
そう言うと千尋さんは立ち上がりお尻についた土をパンパンと叩いた。膝から滑り落ちた孔明が「みゃあ」と恨めしそうな声を出す。よく寝る猫。
「行こう!」
夜市の方に歩いていく千尋さんのあとを、私は慌てて追いかけた。孔明も後に続く。さっきまでの不安はすべて吹き飛んでいた。

***

千尋さんと孔明と一緒に夜市の中にある小屋に入った。そこは露天ではなく木でできたカウンターやテーブルの並んだ飲み屋さんみたいなところで、千尋さんはおいしそうにお酒を飲み、私のためにたくさんの料理を注文してくれた。ろうそくで照らされたテーブルの上には白いお皿に乗ったごろごろのハンバーグ。缶に入った煮豆。小さなカゴには金褐色にパリッと焼いたパン。2つのボールはバターと金色の蜂蜜。それにオレンジのポット。注ぎ口からはホカホカと湯気が昇っている。カップに注ぐと、それに私の大好きなホットミルク。ふわっと優しい匂いがした。
「さぁ、たくさん食べてね。」
千尋さんに言われて私は食事に飛びついた。パリパリのパンにバターをたっぷり塗って溢れる位にハチミツを塗ってむしゃぶりつく。体中が幸せに包まれて、食べれば食べるほどどんどん美味しくなっていく。千尋さんはそんな私をニコニコしながら見つめている。信じられないほどおいしい。ごろごろのハンバーグは大好きなお母さんの作ったハンバーグと同じくらいおいしいし、普段苦手なはずの煮豆もなぜか全然嫌じゃなかった。ペコペコだったお腹が満たされていく。同時に心にも温かいものが流れ込んでくるみたいだ。食べれば食べるほど幸せになっていく。心の奥が綺麗になっていく。
「良い食べっぷりね。嬉しいわ。」
お腹がパンパンになるまで食べてやっと手を止めた私に千尋さんは嬉しそうにそう言った。タバコに火をつけておいしそうに煙を吐く。
「本当においしかった。今まで食べた中で1番おいしかったかもしれません。」
「そういうものよね。食事は何を食べるかより誰とどうやって食べるか。ここには嫌な人なんて1人もいないから、ここで食べるものは何でもすごくおいしいと思うわ」
千尋さんはそう言うと立ち上がった。
「さぁ、少し歩こうか?この世界を案内してあげる。」
そう言われてはっと気付いた。
「千尋さん、私、お金持っていない。」
あまりに食事が美味しくて忘れていた。お店に入ってたらふく食べたのだからお金がかかるはずだ。どうしよう?初めて会う千尋さんにご馳走になるなんて申し訳ない。
「大丈夫よ。ここでは言葉を送るの。言葉がお金になるの。ちょっと見ててね。」
そう言うと千尋さんは店長さんを呼んだ。そして目をつむり両手を胸に当てる。
「ごちそうさま。すごくおいしかった。」
そう言うと千尋さんは胸から手を離し水をすくう時のように両手をくっつけた。手の中にオレンジの光が溢れる。ランプの暖かい光が水になり手の中で波打つように。暖かさや柔らかさが見ている私にも伝わってくる優しい光。店員さんが両手を差し出すと千尋さんはその光をそっと渡した。店員さんは千尋さんがしたのとは反対に手に貯めた光を自分の胸の中にしまった。
「どうもありがとう」
そう言うと奥に引っ込んでいく。
「見えた?」
千尋さんにそう聞かれて私はうなずいた。
「誰かに向けた思いとか、気持ちがこの世界ではお金の代わりになるの。思いを言葉に乗せて送るのね。現実の世界のお金もそうでしょ?『ごちそうさま』の気持ちを伝えたくてレストランにお金を払う。『あなたのことを応援しています』って言う気持ちを乗せて、大変な人に募金をする。この世界ではその思いをコインやお札に乗せて伝えるのではなく、言葉で伝えるの。お金に託す代わりに、直接言葉をお金として使うのよ。」
私はあまりのことに驚いて何も言えなかった。
「レターポットて言うんだけど、この世界では言葉で伝えるだけでなく、目に見えるようにしたの。強い思いは強い光になって相手に届く。優しい想いは優しい光になって相手に届くの。
「すごい…」
「すごいよね。でも1回目でちゃんと見えた綾ちゃんもすごいよ。慣れるまでは見えない人も結構いるんだ。相当心がきれいじゃないと1回目からははっきり見えないものよ。行こう。この世界のことを案内してあげる。」
そう言うと千尋さんは店を出た。私と孔明も後に続く。早くこの世界のことを知りたい。私は千尋さんとこの世界のことがすっかり好きになってしまったようだ。

***

千尋さんが案内してくれる世界は不思議なものや素敵なものでいっぱいで、私は目があと5個ぐらい欲しいと思った。さっきは気づかなかったけど、気をつけてみると夜市のあちこちで、みんなお金のやりとりをしていた。露店でキラキラとした指輪を買った男の人や、世界中の花を集めて作ったようないい匂いのするオーデコロンを買った女の人が、さっきの千尋さんのようにオレンジの光で会計を済ませていた。
「これ、本当に千尋さんの夢なんですよね?こんなにたくさん友達がいるんですか?」
「そうなの。私はみんなでワイワイするのが好きで、たくさんの人を夢幻鉄道で呼んじゃうのよ。孔明が勝手に連れてくることもあるしね。綾ちゃんもたくさん友達が出る夢とか見るでしょ?」
千尋さんにそう言われて私は思わず考え込んだ。昔は空を飛んだり、お姫様になったりする楽しい夢を見ていた気がする。最近は夢は見ない日が多いし、見ても勉強したり塾に行ったりする夢。友達が出てくることなんてなかった。
「私は…友達が少ないから…」
そう言ってうつむいた私の顔を千尋さんが覗き込む。心の奥まで見通してしまうような深い目。でも怖い感じが全然しない。この人になら全てさらけ出せる。そう思った。
「友達の少ない良い子ちゃんか。ここにはそういう子もたくさんいるよ。だから安心して。」
そう言って笑う千尋さんはすごい人気者で、少し歩くたびにいろいろな人に声をかけられていた。私と同じ位の歳の子供も、少し怖い感じのお兄さんもいた。誰とでも仲良く千尋さんはしゃべる。
「この子はね、綾ちゃんていうの。今日初めてここに来たんだって。仲良くしてあげてね。」
そう言って千尋さんは私を紹介してくれるのだけど、はじめての人と喋るのが苦手な私は上手に自己紹介ができなかった。孔明を抱いて小さくなった私に、それでも夜市に来たみんなは優しく笑いかけてくれる。本当にいい人たちばかりだ。色々な人に声をかけられ、ゆっくりゆっくりと夜市を抜け、森の奥に足を進める。しばらく行くと大きな池があった。水面に遠くの夜市のちょうちんが反射する。あたりからはゆったりとした虫の声。静かでゆったりとした心の洗われるような空間だ。
「あれを見て。」
千尋さんが指さした先には小さな小屋があった。ガラス張りの窓の奥で、澄んだ瞳をした男の人が机に向かって何か書いている。
「あの人はね、この世界を設計した人。さっき言った絵本の作者ね。今もせっせと新しい物語を紡いでいるんだ。ほんと、素敵な人だよ。」
千尋さんは憧れを含んだ目で小屋を眺める。池のほとりをぐるっと半周した。森の奥には大きな木で出来た時計台がある。
「ここはね、時々蛍が出るの。時計の音で目を覚まして蛍が一斉に光を放つところなんて信じられない位きれいなんだよ。」
千尋さんの説明を聞きながら時計を見たとき、私ははっと気づいた。
「大変!!もう夜遅いよね?私帰らなきゃ」
「あら?もう帰っちゃうの?仕方ないわね。お母さん心配しちゃうしね。ちょっと待って。お土産をあげるね。」
そう言って千尋さんはかがみこむ。背の低い私に目線を合わせて手を胸に当てて言ってくれた。
「今日は来てくれてありがとう。会えて嬉しかった。またいつでも来てね。孔明についていけば電車に乗れるよ。」
胸から離した手にはオレンジの光がなみなみと踊っていた。私も手を出して受け取る。
「胸に入れてみて。」
そう言われて私は恐る恐る光を胸に当ててみた。その途端に温かい気持ちが胸に溢れる。小さい頃、木の根を枕に横たわり土や木と気持ちが一緒になったのを感じた。あの時と同じような温かい優しい気持ち。
「これで綾ちゃんも夜市でお買い物ができるわ。また来てね。」
にっこりと笑う千尋さんに思わず抱きついた。なんて気持ちの良い人。なんて素敵な場所なんだろう。
「ありがとう…また来るね。」
「孔明、送ってあげて。」
千尋さんがそう言うと孔明が面倒臭そうに私の前を歩き出す。私は何度も千尋さんを振り返りながら孔明のフリフリのお尻を追いかけた。千尋さんはその度に私に優しく笑いかけて手を振ってくれる。
「絶対また来たい。いつかこの世界の一員になりたい。」
強くそう思い、私は電車に乗り現実に戻っていった。

***

帰りが遅くなった私をママは心配してくれた。「不思議な電車に乗って素敵な女の人の夢の中に行った。」なんて、とても言えない。私は塾の帰りに友達と買い食いをして遅くなったと苦しい言い訳で押し切った。次の日から私は学校が終わると一目散にあの公園のベンチに走って行って、孔明を待った。孔明は気まぐれで姿を表す時も表さない時もあった。孔明に会えない時はそのままとぼとぼと家に帰る。その頃はママは体調が悪くて会社を休むことも増えていた。晩御飯も惣菜や冷凍食品。小さい頃はママが時間をかけて作ってくれた晩ごはんを家族みんなで食べるのが何よりの楽しみだった。今はママと2人、味気ない冷凍のチャーハンをチンして2人で食べたりする。パパは仕事で忙しいから一緒に食べられないのだ。美味しいはずなのに美味しくない。千尋さんの言う通りだ。何を食べるかより誰とどうやって食べるか。小さい頃特別な幸せをくれた晩ごはんの時間は今ではお腹を膨らますだけの夕食になっていた。昼間、学校でエミちゃんやマコちゃんといるのもなんだか窮屈だった。2人の前で私は2人の真似をしないといけない。2人が喜びそうなことを言って2人に話を合わせる。今までも少し窮屈に感じていたけど、千尋さんの夢を見てからはそれがより嫌なものになっていた。それに塾。良い子にしてママを喜ばせて、良い中学に入りたい。そういう気持ちは多少あった。でもどうしても頑張れない。私は塾をサボることが増えて、それがママにバレないかが不安だった。現実が窮屈な分、千尋さんの夢の中は楽しかった。公園のベンチで不機嫌そうに草むらから顔出す孔明に会えると、私は心の底から嬉しくなり夢幻鉄道が来るのを待った。千尋さんの夢の中で私はたくさん友達ができた。千尋さんと違ってみんなでワイワイすることはできないけれど、みんなで一緒にご飯を食べながらゆっくりおしゃべりをした。私のママ位の歳の女の人もいたし、私より年下の男の子もいた。少しずつ夜市で買い物することもあったけど、オレンジ色の光でお菓子や飲み物を買うのはとても気分がよかった。気持ちを渡して買い物をしているはずなのに何故かこちらまで幸せな気分になる。たまに千尋さんを見かけることもあったけれど、なかなか話す機会はなかった。千尋さんはすごい人気者でいつもたくさんの人に囲まれていたのだ。
「千尋さんはすごいな。」
そう思った。不思議な夢に行くたびに幸せで素敵な気持ちになったけど一方で現実では塾をサボって学校の友達とも疎遠になりママに心配をかけている自分がいる。夢の中の住人の天真爛漫さを見ると自分のダメさが嫌になることもあった。私ももっとちゃんとしなくちゃいけない。

***

ある日、私は千尋さんの夢の中、1人でコーヒーを飲んでいた。夜市で無料で配られているコーヒーを受け取り、森の奥の池まで1人で歩いてきたのだ。その日はどうしても1人になりたかった。学校で嫌なことがあった。エミちゃんとマコちゃんが私の代わりにリエちゃんと一緒に下校するようになっていたのだ。なんだか居場所がなくなった。そんな寂しい気持ちになった。エミちゃんやマコちゃんと一緒にいる時間がものすごく楽しかったわけではない。でも学校に居場所がなくなるのは何となく嫌だった。前みたいにエミちゃんやマコちゃんに合わせて、一緒に帰ったり放課後も一緒に過ごしたりしないといけないのだろうか?私は靴を脱ぎ、池のほとりの木の根に寄り掛かって座った。静かな水面を眺めながら、1人でコーヒーを飲む。遠くの夜市の提灯と夜空の星が水面に映る。いつの間にか一緒に来たはずの孔明はどこかに消え、私1人。訳もなく涙が溢れてきたその時、
「綾ちゃん。」
優しい声がして振り返ると千尋さんがいた。ニコニコ笑いながら私の隣に腰を下ろす。
「また来てくれたんだね。何回か夜市で顔を見かけたんだけど、私、みんなと一緒にいたから声をかけられなかったんだ。今日は1人?……泣いてるの?」
千尋さんが私のうつむいた顔を覗き込む。私は震えながらうなずいた。今日学校であったことを話す。話しながら涙がどんどん溢れてきた。なんでこんなに泣くのか自分でもわからなかった。ひどいいじめに遭っているわけでもないしパパもママも忙しいだけで優しくしてくれるはずなのに、なぜか寂しかった。
「私ね、怖いの。私が私でいたら誰も私のことを大切にしてくれない。私がちゃんとしてママを安心させなきゃいけないし、私が上手に立ち振る舞ってエミちゃんやマコちゃんと一緒にいなきゃいけない。でもどうしてもそれが上手にできなくて。誰にも好かれない、つまんない私にすぐに戻っちゃう。」
言葉が次から次に溢れてきた。普段悩みがあっても人に相談したりしない私が、こんなに止めどなく話すなんて初めてのことだった。
「私…千尋さんみたいな素敵な女の人になりたい。」
震える声で私はそういった。千尋さんは私の話を何も言わずに最後まで聞いてくれた。水面に映る星を眺めながらただ私の言葉に耳をすませ受け止めてくれる。
「…私もね、素敵な人なんかじゃないのよ。」
千尋さんがぼそりと言った。
「え?」
私が驚いて千尋さんの方を見る。その私の目を千尋さんは優しく見つめる。
「私ね、大切な人を失ったの。失ったって言っても、死んじゃったり行方不明になったりわけじゃなくてね。結婚しようと思っていた男の人と別れることになって。」
千尋さんの目が寂し気に揺れる。
「この人に認められよう。この人のお嫁さんになれるように頑張ろうって、いろいろなことをしたの。大人だからお仕事も頑張ったし料理の勉強もした。大切にされたくて必死だった。崖をよじ昇っているみたいなものね。ほんの小さい出っ張りに手をかけて、一生懸命それをつかんで必死に落ちないように頑張っていたの……駄目だったけどね。」
「…ふられちゃったの…?」
そう聞くと千尋さんは苦笑いで続けた。
「そうね。ふられちゃった。崖の底に突き落とされて心がボロボロになったわ。仕事も辞めて今は1人でのんびりしているの。好きな本をたくさん読んで、たくさん昼寝して。だからね、全然素敵なんかじゃない。綾ちゃんと同じ必死にしがみついている人だったのよ。ちゃんとした人になろうともがいていた。」
そう言うと千尋さんはそっと私の肩を抱いた。女同士なのになぜだかドキドキしてしまう。
「綾ちゃん、聞いて。綾ちゃんはとっても素敵よ。私が初めて夜市でレターポットを使った時、綾ちゃんはその光をちゃんと見ることができたよね?あれは人の気持ちがよく見えるって言う綾ちゃんの特技なの。凄い事よ。ものすごく偉くて尊いこと。だから自信を持って。きっと大丈夫よ。」
そう言われて涙があふれた。さっきまでの悲しい涙とは違う。熱く揺れる涙。心の底が震えてくる。千尋さんの心の大きさ、暖かさは一体何なんだろう。千尋さんの胸の中温かい気持ちに抱かれながら私はいつまでも泣いていた。

***

その週の土曜日、大変なことが起きた。午前中、いつもの公園のベンチで孔明と遊んだ後(まだ午前中なので夢幻鉄道は来なかった)、お昼ご飯を食べに家に帰るとママがまだ寝ていた。パパは休みの日も仕事。ママが昼過ぎまで寝るのは珍しくもないので、はじめは気にしなかったのだけど、3時位になるとさすがにおかしいと思い始めた。
「ママ…まだ寝てるの?もうお昼過ぎてるよ。」
寝室のドアのところで呼びかけても返事がない。掛け布団をはいで見ると、ママは目をつむり苦しそうにうなだれていた。
「ママ!!」
思わず抱きついて私は驚いた。ママの体が熱い。熱があるみたいだ。ママの体を揺すっても反応は無い。どうしよう?ママが死んじゃう。パパに電話したけど仕事中なのか通じなかった。震える手で救急車を呼んだ。救急隊の人が駆けつけるまで5分ぐらいかかったのだけど、それは私の人生で1番長くて怖い5分だ。大切な大切なママが死んじゃう。それなのに私には何もできない。救急隊の人が来てからの事はあまり覚えていない。私は生まれて初めて救急車に乗って、隊員の人に聞かれたことにたくさん答えた。やっとパパと電話が通じて仕事を切り上げて病院に駆けつけてくれることになった。
「命に別状はありませんが、しばらく入院していただきます。」
病院につき、一通りの検査を終えると、私とパパは2人でお医者さんからママの病状を聞いた。入院は2週間位の予定だけど、もっと長くなるかもしれない。それにママのかかった病気はものすごくうつりやすくてお見舞いもできない。結局ママとは一言もしゃべることができないまま、パパと2人でおうちに帰った。私がちゃんとしてればよかった。そう思った。私が公園になんて行かずに家で勉強していればこんなにひどくなる前に気付けたのに。私が良い子にしてママに心配をかけなければこんなことにならなかったのに。私が塾をサボったり、1人で勝手に遊びに行ったりしたから神様が怒っちゃったのかな?いつの間にか夜になっていて、パパと手をつないでとぼとぼと歩いた。
「パパ…ごめんね…私がいい子にしていなかったから…」
そういう私の頭をパパが優しく撫でる。
「綾のせいじゃないよ。夜ご飯を買って帰ろう。」
パパはそう言ってくれるけど、私は涙が止まらずに家までずっと泣いていた。

***

パパは料理が全くできない。ママが入院したその日、パパはおうちに帰る途中コンビニに寄ってインスタントラーメンを買った。この日久しぶりにパパと食べた晩ごはんは私の人生で1番おいしくないご飯だ。テーブルの上の丼には味気ないインスタントラーメン。パパは私を元気付けようとして私の大好きなコーンやバターをたくさん入れてくれたけど、私は半分くらい残ってしまった。考えてみると今日はお昼から何も食べていない。お腹が空いているはずなのに全然食べたくならない。
「私がいい子にならなきゃだめだ。私がちゃんとしないとダメだ。」
そう自分を責めながらデルデルに伸びたラーメンをお腹に流し込んだ。

***

次の日から私の生活は嘘みたいに忙しくなった。学校が終わったら一目散に塾に直行。塾がない日はおうちで予習復習をした。前みたいに公園のベンチで孔明と遊んで塾をサボるなんてこと、今はできない。ママに心配をかけないように良い子になるために私は必死だった。塾やおうちでの勉強が一区切りすると、パパと自分の晩ごはんを作る。家庭科の教科書を読んだり、自分で調べたりしていろいろなものを作った。私はパパと2人で食べたまずいラーメンがトラウマになっていた。あんな味のないごはんはもういやだ。ちゃんと人の手で作った心のこもったものを食べたい。ママができないから私がやろう。そう思って頑張っていたのだけどいまいち上手にできなかった。私の作ったハンバーグはママが作ってくれたものとも、千尋さんの夢の中で食べたものとも違う。パサパサしてなんだかしょっぱい味がした。私が作った味噌汁はママのようにちょうどいいタイミングで仕上げることができず、何度も温め直しをしてだしの香りがすっかりなくなってしまった。学校での生活も変わった。学校で友達がいないとママが心配する。前みたいに少し窮屈でもエミちゃんやマコちゃんと一緒に帰るようにした。一時期、マコちゃんやエミちゃんと一緒にいたリエちゃんは、私が同じグループに戻ってくるのが少し嫌だったみたい。小さな意地悪を何回かされたけど、私は負けなかった。お風呂の掃除や洗濯も忙しいパパに申し訳ないからなるべく私がやるようにした。今までママがやってくれていたようなことを私がやるようにしたのだ。ママの分と私の分、2人分頑張るような生活はひどく疲れたけど、ママに心配をかけたくないから頑張らないといけない。少し前のママみたいに、お休みの日、昼まで寝ていることが増えた。平日、家事に勉強に忙しい私はぐったりと消耗してしまい全然起きられないのだ。ある日学校帰りに孔明に会った。珍しく孔明の方から私の足元にすりよってきたのだけど、私はかまってあげる暇がなかった。
「孔明、もうあの公園のベンチには行けないよ。夢幻鉄道に乗ることもしばらくは無い。ママが病気になってとても忙しいの。私が良い子じゃないとママが心配するでしょ?お料理に勉強にいつもものすごく忙しいからあなたにかまっている暇は無いのよ。」
そう言うと孔明は不機嫌そうに「みゃあ」と言ってどこかに消えていった。頑張って頑張って頑張って生活をして、でも何かを手に入れたわけでは無い。頑張れば頑張るほどやることが増える。パパの仕事もますます忙しくなり、私たちの心はやせ細っていった。

***

そうやって私は頑張って忙しい日々を過ごしていた。お医者さんの言っていた2週間が過ぎてもママはまだ退院しない。ママが帰ってくるまでもっとがんばらなきゃいけない。そう思っていたのにある日限界が来てしまった。きっかけはほんのささいなこと。マコちゃんの誕生日会に誘われたのだ。
「今度の土曜日にさ、私の家でどう?」
そう言ってマコちゃんは、私やエミちゃんを誘うのだけど、私はあまり気が向かなかった。土曜日まで外出する元気はないし、プレゼントを買いに行く時間もないのだ。でもエミちゃんは、
「そうしよう。マコちゃんのママの作るケーキはおいしいし、楽しみ!」
ものすごく乗り気だった。
「綾ちゃんも来てくれるよね?」
「うん…どうだろう。」
私が口ごもるとマコちゃんの表情がさっと曇った。
「どうしたの?予定でもあるの?」
「いや…そういうわけじゃないんだけど…」
マコちゃんがみるみる不機嫌になる。マコちゃんは結構性格がきつく、嫌なことがあるとすぐに怒るのだ。
「じゃあいいよ。来たくないなら綾ちゃんは来ないで。代わりにリエちゃんを呼ぶから。」
そう言って私に背を向け、リエちゃんのほうに行ってしまった。「ああ…」と私は思った。またこれか。こんなに一生懸命頑張っているのに、また1人。また仲間外れ。その日は塾
がない日で、まっすぐに家に帰って勉強したのだが、机に向かっても全然集中できなかった。マコちゃんと喧嘩してしまったことが私の心をチクチクとさす。もっといい子にならないともっとちゃんとしないと。そう思う一方で何もかも放り出したい自分がいる。その日私は久しぶりに夜ご飯の準備をサボった。パパの帰りを待つこともしない。お風呂にも入らず歯も磨かずにものすごく早く寝てしまう。自分で自分を大切にすることがなんだかできなくなっていた。ただ現実から逃げたくて目をそらしたくてそれで布団をかぶって寝てしまったのだ。

***

玄関のドアをひっかく音で目が覚めた。夜中。いつの間にかパパも帰ってきてもう寝てしまっているらしい。家の中は真っ暗。ただドアのあたりからカリカリと音がする。なんだろう?私はベッドを降りるとそろそろと玄関に歩み寄り、のぞき穴から外を見てみた。誰もいない。でもカリカリと言う音は止まらない。ネズミでもいるのだろうか?チェーンを閉めたまま鍵を開け、恐る恐るドアを開くと隙間からすると潜り込んできたのは孔明だった。
「孔明?」
私は声を潜めてしゃがみ込む。孔明を抱きかかえると、パパにバレないように急いで私の部屋に戻る。ベッドに座って膝に乗せる。
「どうしたの孔明?わざわざ来てくれたの?」
いつもは膝に乗るとすぐに眠ってしまうのに、今日の孔明は少し違った。何かを伝えようとするかのように私の方をじっと見て、そして時々窓の外を見つめる。どういうことだろう?私がよくわからないでいると、耳慣れたあの音が聞こえてきた。ガタンゴトン。金属の重い音とともに夢幻鉄道がやってくる。私の家まで来るのは初めてのことだった。私の膝から降りると孔明は窓の鍵を引っ掻くようにして開け、私の部屋の窓を開いた。
「乗れっていうこと?」
いつもなら断っただろう。以前と違って私は忙しい。でもこの日は断れなかった。マコちゃんと喧嘩した寂しさでどうしても千尋さんや夢の世界のみんなに会いたい。それにちょうど明日は休みで昼まで寝ていて良いのだ。少しくらい夜更かしして遊びに行ってもいいだろうだろ。私と孔明は一緒に久しぶりの夢幻鉄道に飛び乗った。

***

千尋さんの夢に着いた時、「あれ?」と思った。すごく暗い。提灯の数がいつもの5分の1くらいで、辺りは真っ暗だった。足元もよく見えない。
「孔明?これどういうことかな?」
そう言っていても孔明は何も答えない。お尻をフリフリとさせて私の前を歩く。誰もいない。夜市もこの日は出店が一軒もなく、静かだった。無料のコーヒー屋さんもない。提灯の数が少なくて足元がよく見えないので、木の根や小石につまずかないように注意して歩いた。いつもはあんなにガヤガヤして賑やかな千尋さんの夢の中が、今は水を打ったように静か。普段夜市がある場所を抜けて池のほとりに着いた。孔明は木の根元で丸くなる。ここに来たがっていたのか?私も孔明の隣に腰を下ろす。あたりを見回しても誰もいない。何の前触れもなく、夜市を照らしていた数少ない提灯が消えた。夢幻鉄道の駅の提灯も消えて辺りは真っ暗になる。鼻の先も見えない。目をつぶっていてもわからない暗闇。私は不安になってきた。その時、
「カチ!」
私の隣で音がした。ライターの小さな灯に照らされて千尋さんの顔が浮かび上がる。
「千尋さん!!」
私の隣にこっそり座っていた千尋さんがライターでタバコに火をつけたのだ。
「久しぶりね。綾ちゃん。」
タバコの火に照らされて、ぼんやりと見える千尋さんの優しい顔。
「あの…今日は誰も来ていないんですか?」
「孔明に聞いたけどね、大変みたいね。」
私の質問に答えず千尋さんは言った。
「ママが入院しちゃったの?」
「ああ…はい…」
「ちょっと話を聞かせてくれない?」
そう言われて私は今まであったことを色々と話した。本当は聞きたいことがいろいろあったのだけど、千尋さんに促されるまま、自分のことを延々と。千尋さんは時々タバコの煙を吐きながら真剣に耳を傾けてくれる。
「ママがかわいそうで、ママに心配をかけたくなくて、私が頑張らないといけないのに、なんだかそれもできなくて…」
そう言って泣き出してしまった私の方を千尋さんは優しく抱いてくれた。
「大切な人が苦しんでいる時って、どうしても自分を責めたくなってしまうよね?私もそうだった。いつか話したことがあるよね?私も大切な人を失った時ものすごく自分を責めた。」
「……千尋さんも……」
「うん。もっと一生懸命にしてればふられなかったかもって、すごく落ち込んだ。私がもっと可愛ければふられなかったのかな?私がもっとおしとやかにしていればふられなかったかな?ってね。でもね、違ったみたい。」
「違った?」
「ある日ね、たまたま街で彼に再会したの。少しだけ立ち話をして。その時にね、言われたの。『千尋のことがよくわからなかった。』って。いわれてよくわかったわ。確かに私は、可愛い子ぶって、彼に本当の自分を見せていなかった。その方が、彼に好かれると思ったから。でも間違ってた。もっと甘えたり本音で話したりすればよかった。かっこつけていい女ぶってちゃんとした人だと思われようとしてたんだけど、そんなことをしても私は私だし、甘えて頼って好きな気持ちをたくさん伝えればよかった。」
そういうと千尋さんは少し間をおいた。虫の声が響く。暗闇にも目が慣れて静かな水面が見えた。
「綾ちゃん、聞いて。私が綾ちゃんと一緒にいるのはね、綾ちゃんがちゃんとした子だからとか、綾ちゃんがいい子だからではないのよ。綾ちゃんは、人の気持ちのわかるとても優しい子ね。別に頑張っていなくても、ただいるだけで、人の気持ちのわかる素敵な女の子であることは変わらない。ひとりでいると寂しい。綾ちゃんみたいな優しい人とといると楽しい。私が綾ちゃんと一緒にいるのはただこれだけの理由だし人が一緒にいるなんてそれで充分なの。」
「千尋さん…」
「綾ちゃんが素敵なのはね、ちゃんとしているからとか、一生懸命頑張っているからじゃないの。綾ちゃんはレターポットの光を最初からはっきりと見れた。人の気持ちや木や土の気持ちを自分の気持ちのように捉える優しい心を持っている。そういう綾ちゃんがもとから持っているきれいなところが私は好きだし、素敵だと思うんだ。それにね、人の気持ちがよく見える綾ちゃんはこれからとっても素敵なものが見られるよ。」
そう言うと千尋さんは立ち上がった。
「みんな~!綾ちゃんが来てくれたよ~!みんなの気持ちを見せて~」
両手を口にあてて叫ぶ。次の瞬間、池のほとりからオレンジの光が溢れてきた。レターポットの優しい光。草むらや木の陰に隠れていたらしい人たちが両手に光をためて立っている。よく見ると私が友達になった千尋さんの夢の住人たちだ。
「みんなね、綾ちゃんと綾ちゃんのお母さんを応援するために集まってくれたのよ。」
「私たちのために?」
「そう。あなたたちのために。他の誰より人の気持ちがわかる綾ちゃんはこの光が誰より鮮明に見えているはずよ。」
そう言うと千尋さんも胸に手を当てた。
「綾ちゃんのお母さんの病気が治りますように。」
目をつぶってそういうと手を胸から話す。柔らかく暖かい光が両手に称えられていた。そして、
「行くよ!!」
千尋さんがそう言うとみんなが思い思いに光を空に投げた。池のほとりのあちこちから優しい光が空に舞い上がる。オレンジの光が気球のようにふわふわと空を目指す。それが水面に反射して夢のような景色になった。私は心が洗われるような不思議な気持ちになっていた。みんなが私のために気持ちを使ってくれる。そのことがただ嬉しかった。あちこちから飛び立った光はどんどん高度を上げていく。暗闇に吸い込まれていくように空高く登る。米粒くらいに小さくなりやがて見えなくなるの私は飽きもせずずっと見ていた。
「千尋さん、ありがとう。こんなに嬉しい気持ちになったの私は初めて。」
私がそう言うと千尋さんは笑って首を振る。
「まだ終わりじゃないのよ。」
「え?」
「昇っていった光はいずれ落ちてくる。流れ星になってね。だからもう少し見てて。」
そう言って千尋さんの空は指差す。私は千尋さんの指の先、真っ暗な闇をただ見つめていた。オレンジの光がたくさん吸い込まれた後の暗闇。あたりはまた静かになる。明かりがなく誰の顔も見えない。はじめは、何かの見間違いかと思った。夜空を引っ掻くような白い流れ星が一筋流れる。
「千尋さん、あれ…」
そう言うと千尋さんは満足そうにうなずいてくれた。
「見てて」
流れ星はみるみる増えていく。キラキラとした閃光が空を切る。次第に空を埋め尽くす位たくさんの流星群が池の上の空で瞬いた。真っ暗な空をひっかくように数え切れない星屑が光る。あたりが昼間のように明るくなった。
「綾ちゃん、願い事をしてみて。」
「うん」
私は手を合わせるとたくさんの流れ星に願いを込めた。
「ママの病気が治りますように。」
まるで星が返事をしてくれたみたいに流星群はそれから5分くらい続いた。

***

次の日、目が覚めるともうお昼だった。前の晩、私が夢のような流星群に願いを込めた後、千尋さんは提灯に灯をつけて夜市を開いてくれた。いつも以上に賑やかで楽しい夜市。みんなでたくさんのものを食べて、たくさんのものも飲んだ。そして心行くまでいろいろなことを喋った。私はみんなにお礼を言いながらいつまでもいつまでもお祭りのような夜市を歩いていた。少し休もうとして入った喫茶店で、歩き疲れて寝てしまったようだ。気づくと現実に戻ってきていた。私は目が覚めても布団の中で目をつむり昨夜の楽しい出来事を思い出していた。暖かいオレンジの光が夜の闇に吸い込まれていくところや、花火のようにきれいな流れ星。目を閉じるとありありと思い出せる。それに夜市で食べたたくさんのもの。今も鼻の奥にいい匂いが残っている。鼻をクンクンさせると昨日の美味しい匂いが……あれ?おかしい?ほんとにいい匂いがしている。それに目を覚ますとトントンと包丁の音も。パパが頑張ってお料理をしているのかな?私がベッドを出て台所へ行くとそこには…
「ママ!!」
「綾ちゃん、久しぶりね。起こしちゃったかな?」
「ママ!!もう病気治ったの?帰ってきて平気?」
「うん。もうすっかり元気になっちゃった。久しぶりにご飯を作るのが楽しくて、つい作りすぎちゃった。」
昔のような素敵な笑顔でママが言った。フライパンの中には私の大好きなごろごろのハンバーグ。
「今朝退院してきたんだ。綾は少し疲れているみたいだから起こさずにパパだけで迎えに行った。」
リビングからパパの声がする。しばらくするとハンバーグが焼き上がった。大きなお皿に乗せて私とママでテーブルに運んだ。流れ星が願いを叶えてくれた。久しぶりに家族3人で食べるご飯だ。私は待ち切れない気持ちだった。テーブルの上に所狭しと並んだお昼ご飯。やっぱりママの作るものが1番美味しいし、パパとママと3人で食べるご飯が1番楽しい。これさえあれば、別に他に何もいらない。
「いただきます」
私の幸せな生活が戻ってきた。

(完)


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