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悲しみの底で「幸せでいる」ことを諦めていた私に起きた3つの奇跡のお話。| 中島裕翔くんとの出会い

中島裕翔くんとの出会いが、Hey!Say!JUMPとの出会いが、『ウェンディ&ピーターパン』との出会いが、起こしてくれた3つの奇跡。「いつか伝えたい」が、「今伝えたい」に変わったから。届いたよって、救われたよって、私を救ってくれたすべての方に、胸いっぱいの感謝が届きますように


沢山の奇跡を起こす出会いのはじまり

中島裕翔くんとの出会い。Hey!Say!JUMPとの出会い。それは24歳の誕生日でした。

私が小学5年生のときにデビューした彼ら。同世代のアイドルでした。地元は福井県、芸能界なんてキラキラした世界は遠かったけど、周りにはもちろんファンもいました。でも、私自身はなぜか大人になるまでずっとアイドルにもミーハーなことにも全く興味がなかった学生時代。それどころか、誰かのCDを買ったことも、ライブに行ったことも、ライブのDVDを見たこともありませんでした。

大学時代は、地元を飛び出して東京の大学に進学。薮くんとは面識こそないものの大学の同級生だし、他にも芸能人の同級生も多くいました。アナウンス学校に通いアナウンサーを目指した時期もあったし、休みの日に番組観覧に出かけたことも。周りの友達は、それまで以上に好きなアーティストがいたりアイドルがいたり、キラキラした世界もこれまでよりずっと身近になりました。それでも人並みに、嵐や関ジャニのバラエティ番組を見るくらい。これといって興味を持つ機会はないままで、アイドルとかきっと私には無縁なんだろうな~と思っていました。

中学の友達にも高校の友達にも大学の友達にも、「なのちゃんだけはそういうの本当興味ないよね」と言われていた私。そんな私がなぜ大人になって急に中島裕翔くんに出会うのか。Hey!Say!JUMPのファンになるのか。その出会いが、沢山の奇跡を起こすことになります。

人生最大の悲しみの底へ。「幸せになる」意欲をなくした

社会人2年目に入った時、コロナ禍に。遊びや旅行を扱う会社で働いていた私は、大好きな会社を休職 → 別の会社へ出向を余儀なくされました。(この件でテレビや新聞や雑誌の取材も受けたり)緊急事態宣言が明け、出向先の会社はフルリモートワークだったので、住んでいた新宿のマンションを解約し、地元の福井に戻ることに決めます。

実家に戻った矢先、大好きな大好きな祖父が天国に行きました。小さい頃から色んな楽しい経験をさせてくれ、ステーキハウスを創業して沢山のすごい景色を見せてくれた、家族を幸せにしてくれた身近な偉人。ビッグでかっこいい、大好きなおじいちゃん。緊急事態宣言中、新宿の家でずっとひとりぼっちだった私のために、ビデオ通話ができるようにと買い替えたスマホで「頑張ってるか~」「寂しくないか~」と慣れないビデオ電話をかけてきてくれたのは祖父でした。ほぼ毎日のように、24年間で一番よく話した期間だったかもしれません。私が手書きで書いた楽譜を見て、毎日練習したピアノを弾く動画を、私が上京したときに買い替えて覚えたスマホで自分で撮って送ってきてくれたことがありました。感動して、嬉しくて、1人ぼっちの家でめちゃくちゃ泣きました。そんな大好きな祖父との突然の別れに、心にぽっかり穴が開いてしまいました。


超貧乏だった幼少期から、おばあちゃんと出会って大恋愛をして。
タクシー運転手をしながらいろんな人の話を聞いて、夢を抱いて、叶えて、ステーキハウスを創業して大きくして。豪快な趣味で周りを楽しませて、家族のことはいつも深い深い愛で包んでくれたおじいちゃん。

やると決めたら突き詰める。私が知ってるだけでも、好きだったものや趣味は伝説級。おじいちゃんの家には、鎧、西洋甲冑、日本刀、剥製、白いグランドピアノ、鐘時計、バーカウンターやカラオケ付きの応接間、綺麗な食器セット、古いお酒など・・・お宝みたいな調度品がたくさんありました。
歴史のものや豪華なもの、かっこいいものが大好きだったおじいちゃんは、集めた調度品を大事に飾って大事に手入れして、家に来てくれるお客さんや孫たちにいつも嬉しそうに見せてくれて。

民謡を始めれば名取にもなったし、馬を始めれば自馬を買って大会にも出たし、孫が生まれたときにはかっこいいロールスロイスを自ら運転して病院に迎えに来てくれたし、孫の名前をつけた船にみんなを乗せて海に釣りやマリンスポーツをしに連れて行ってくれたし、私が小学生の頃からは毎年おじいちゃんとおばあちゃんと孫だけで日本各地に旅行に行ったし、いつも孫たちの友達に美味しいお肉を食べさせてもてなしてくれました。

いつもおしゃれな服を着て、豪快な趣味で楽しませてくれて、世界中探してもいないくらい、どこまでも、粋で、本当にかっこいい自慢のおじいちゃん。

喜寿になってから始めたピアノは、リハビリのためと言っていたけど、本当は初孫で可愛がっていた私が東京の大学に行ってしまって一緒に練習したり話したくて頑張ってたのを知っていました。福井に帰ると、いつも嬉しそうに「あやのピアノ教えてや〜」と言って、私の手作りの数字とアルファベットだけの手書きの楽譜を見ながら毎日1時間練習をしてて、気づいたら5曲も6曲も弾けるようになって。こんな歳になってからも、こんなに体辛くなっても、人間こんなことができるんだってみんなを驚かせて力をくれました。

体が辛くなってからも、大学のダンスのステージも、卒業式も福井からわざわざ見にきてくれました。東京で仕事を頑張っている話も嬉しそうに聞いてくれました。
いつも1番力をくれて、頑張ると喜んでくれたおじいちゃんに
ニコニコした優しい笑顔で力強く応援してくれたおじいちゃんに
「お前はできる」っていつも信じてくれていたおじいちゃんに
少しは、誇れる姿を見せてあげられて良かった。
いつも自慢の孫だと言ってくれた。私こそ自慢のおじいちゃんだったけど。

最期の入院してからも、息をするのも辛いはずなのに、先生や看護師さんやお見舞いの電話をくれる友達に「ご苦労さん!」「ありがとう!」「頑張れよ!」とむしろ相手を元気づけるくらい元気に声をかけていました。
どんな時も周りを気遣い、楽しませ、感謝し、力づける姿を見て
おじいちゃんってこういう人だから愛されたんだな、みんなを楽しませて、感謝して、大きな愛を注ぐ人だから、沢山の人に愛されて生きてきたんだなとそばで感じられました。

おじいちゃんのお葬式は、
おじいちゃんが歌う演歌の声やピアノの音が鳴っていて、三味線の先生が演奏を披露してくれて、大好きだった孫4人が弔辞を読んで、たっっくさんの写真のギャラリーがあって、おじいちゃんが大事にまとめていたアルバムもビデオも飾って、おじいちゃんがまだそこで笑ってるみたいな、賑やかでおじいちゃんらしいお葬式でした。

そんなお葬式が終わって、私は幸せでいることを諦めてしまった。いつも誰よりも私が幸せでいることを願って、応援してくれていたおじいちゃん。世界中の誰よりも幸せな姿を、おじいちゃんに見せたくてこれまでずっと生きてきた。もう、仕事を頑張っている姿も、大切な人と出会って結婚して幸せになっていく姿も、好きな人に囲まれて楽しく過ごす姿も、おじいちゃんには見せられない。・・・「幸せになる」意欲を失ってしまいました。

バラバラの3人を繋いだ、1つ目の奇跡のお話。

そんなとき、地元に戻っていたので久しぶりに会えた高校時代の友達が「誕生日プレゼント何ほしい?」と聞いてくれました。新宿の家で1人ぼっちで廃人のようになっていたときに見漁ってた動画でふと見つけた「爽やかで優等生な ”かっこいい俳優の中島裕翔くん”。ひそかに元気をもらっていました。ちょっと気になるな。アイドルしている姿を見てみたい!」そんな軽い気持ちで、人生初のライブDVDを買ってもらいました。(2015年の『JUMPing CARnival』でした)

せっかくなので、買ってくれた高校時代の友達と、もう一人同じテニス部の仲間を誘って3人で一緒に見ました。一緒に毎日青春時代を過ごした仲間たちだったけど、お互い社会人になって忙しくなり、働く業界も住んでる場所もバラバラで、あまり連絡を取ることもなくなり、いつしか疎遠になってしまっていた高校時代の友達。これまで全くアイドルにハマってこなかった3人でしたが、ひょんなことで始まった人生初のライブ鑑賞。そこにいたのは、私たちが小学生だった頃のデビュー当時の知っているHey!Say!JUMPとは違う、ドラマで知っていた爽やかで優等生な俳優の裕翔くんとも違う。沢山の挑戦、経験、苦悩を乗り越えてそれでも彼ららしいアイドルを続けてくれていた、熟成されて味のある、キラキラでかっこいいアイドルの彼らがいました。デビュー当時からずっと応援している人たちももちろんすごいけど、あの時は刺さらなかった私たちが、成長して進化して熟成された彼らをこんなに好きになるチャンスを得たのは、またすごいことだと思います。

表舞台に立ち続けて、挑戦し続けたHey!Say!JUMPだったから出会えた。
進化したHey!Say!JUMPだったから好きになれた。

私たちは、『アイドルとして、挑戦し続け、進化し続けていたHey!SayJUMP』に釘付けでした。

ひとしきり騒ぎ合った時間は、悲しみでいっぱいで毎日涙が溢れていたあの日から、1番楽しい日でした。それから、2週に1回は3人で集まって、過去のライブDVDやMVを見まくりました。知らなかった13年間のHey!Say!JUMPを、部活差ながらの履修メニューを組んで表を作ったり、合宿をしたりしながら、3人ともが未知の世界で、見よう見まねでするオタ活。それぞれの場所で、青春時代に戻れるかのようなあの時間のために、仕事を頑張る日々。悲しみが癒えることはなかったけど、毎日ふとしたときに思い出してすぐに涙が溢れてしまうけど、2週間に1回のその時間だけは、青春時代に戻ったように、みんなでただただ楽しいだけの時間を過ごしました

苦しかった2020年、「もう生きていたくない」と幸せになることを諦めていた私を、生かしてくれていたのは間違いなくこの時間でした。違う道を進む彼女たちとまた会える理由ができて、私にとっていろんな場所になってくれました。帰る場所、青春に戻れる場所、大好きな場所、元気や自信をもらえて前を向ける場所、自分らしさを思い出せる場所、楽しくいられる場所、奮い立たせられる場所、安心する場所・・・そのどれもが、今の私を生かしてくれる大切な場所です。離れ離れになってしまっていたバラバラの3人を、また繋いでくれてありがとう。沢山の楽しくて幸せな時間をありがとう。

この思いをいつか伝えたい。裕翔くんに、Hey!Say!JUMPに、ただありがとうを伝えたい。そうずっと思ってきました。


そんな時、裕翔くんの『ウェンディ&ピーターパン』への出演が決まった。


ピーターの姿になって裕翔くんが伝えにきてくれたこと、2つ目の奇跡のお話。

私が彼に出会ったときには、もう簡単には会えない世の中でした。初めて裕翔くんに会える、そんな気持ちで応募して見に行った舞台。

・・・一番前の真ん中の席が当たりました。そして、前情報なしに見に行った舞台。心の真ん中に、ずしんと、じわっと、響いたセリフがありました。ただの偶然だけど、思い込みだけど、大切な人を失った悲しみから楽しい場所へ救い出すために出会ってくれた裕翔くんが、

『忘れるんじゃない。悲しむことを忘れるんだ』

『残された人が心から幸せだって思える時間を過ごすこと』

それを伝えるために、こんなに近くに来て伝えてくれたんだとしか思えませんでした。ピーターの姿になって、カンパニーの皆さんと全身全霊でそう伝えてくれたこと、本当に心が救われました。この作品に出会えて本当によかった。出会ってくれて、ありがとうございます。


悲しんでしまうから、苦しくなってしまうから、涙が溢れるから、おじいちゃんのことを深く思い出すことからずっと逃げてきました。だから、おじいちゃんが亡くなる直前まで握りしめていたスマホの中身も、最後にみんなで撮った写真も最後に話してくれたときの動画も、まだ一度も見れていません。だけど、ピーターパンの舞台を見に行った日は、少し思い出してみようかな。そして、私のことを愛してくれてた人のため、誰よりも幸せになることを願ってくれていた人のため、幸せになる決心をできたらいいな。

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残してくれたもの。私の宝物。3つ目の奇跡のお話。

千秋楽を見届け、意を決して祖父のスマホを開けたとき、そこに入っていたのは、入院する前の日に撮られた、1本の動画でした

動画が撮られた日付は6月26日。亡くなる8日前でした。自撮りするためにピアノにスマホを立てかけるのに2分以上かかって、やっとのことで設置をして、かっこよくいつものお気に入りの帽子をかぶって、一生懸命ピアノを弾く祖父の姿がありました。おばあちゃんや私が、おじいちゃんが死んでも寂しくないように、体がつらくても毎日欠かさず練習をして、一生懸命残していてくれたんだろうな。震える手で、歌詞を口ずさみながらピアノを弾く5分弱の動画に、祖父が祖父らしく最後まで生きる力と愛が詰まっていました。信じられないかもしれませんが、祖父はもともとピアノの経験はありません。私と一緒に練習したい一心で、私が書いた数字の楽譜と鍵盤に貼ってある数字シールを手掛かりに、若干マヒが残る手で、毎日欠かさず練習してここまで弾けるようになりました。片手だけの簡単なアレンジを渡しても、「片手じゃかっこ悪いから」と両手の楽譜を書かせて、両手で弾く練習をずっとしていました。祖父のベッドの枕元にあったラジカセには、私がお手本で弾いた音源をCDに焼いたものが入っていました。毎日寝る前に、このピアノを聴いていたんだな、離れて頑張っている私とずっと繋がっていてくれて、おじいちゃんもここで最期まで頑張っていたんだな。何度も何度も見て、涙が止まりませんでした。

そしてここでも小さな奇跡。私が上京するときに最後に祖父に教えた曲。楽譜に書き起こした曲は、坂本九さんの「上を向いて歩こう」。Hey!Say!JUMPが、紅白や歌番組で何度もカバーをしているゆかりの曲でした。裕翔くんが歌番組でニコニコといつもの笑顔で「上を向いて歩こう」を歌っている映像を見ると、祖父を思い出して胸がぎゅーっとなるのと同じくらい、そっと背中を押してもらえた気持ちになる、大切な曲になりました。

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(3つ目は覚えるために祖父が書き写したもの。リズムをあけるのが苦手だったので、「ドン」といつも私が歌って最初の入りを揃えていたのがちゃんと書かれています)


今でも祖父を思い出すと、大粒の涙がボロボロこぼれてきます。未だに月に何度か、嗚咽が出るくらい寂しくなって泣いてしまう夜があります。だけど、あんなにかっこよく生きて、愛してくれた、繋がっていてくれた、応援していてくれた大好きなおじいちゃんの血が流れているこの命を、幸せを願っていてくれたこの人生を、大切に、幸せに生きようとやっと決心ができました。

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裕翔くんとの出会いが、Hey!Say!JUMPとの出会いが、『ウェンディ&ピーターパン』との出会いが、起こしてくれた沢山の奇跡。「いつか伝えたい」だった感謝の気持ちが、「今伝えたい」に変わったから。届いたよって、救われたよって、私を救ってくれたすべての方に、この胸いっぱいの感謝が届きますように。



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