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ALEXANDER McQUEENについて - #0 序

2022年12月から2023年5月まで東京都現代美術館で「Christian Dior 夢のクチュリエ」展が開催された。事前予約券は発売時間に即完。当日券は始発電車に乗っても買えず、近隣のホテルに前泊する猛者も現れるほどの盛況ぶり。Diorの膨大なヘリテージを一気見できる貴重な機会だっただけでなく、日本のファッションとアートシーンに対して強烈なインパクトを残したこと(しかもDiorという単独ブランドが資本力でブチ上げたこと)は、今後の展覧会の在り方に影響を与えそう。

ところで、同美術館から徒歩5分ほどの場所に「Stranger」という町中華ならぬ町ミニシアターがある。映画として高純度の作品を上映していたり、特集の着眼点がいい意味でニクかったり、と東京イーストエンド地区の数少ない映像文化の受け皿となっている。
そんなStrangerはディオール展の会期中にファッション関連の映画特集を組んでいた。上映作品は「Diorと私」、「ミセス・ハリス、パリへ行く」、「アンドレ・レオン・タリー」、そして「メット・ガラ ドレスをまとった美術館」(原題 The First Monday in May)。そのうち、「ミセス・ハリス」と「メット・ガラ」の2作を鑑賞した。

「MET GALA」はニューヨーク・メトロポリタン美術館(MET)のコスチューム部門の運営資金を調達する一大イベントのことだ。毎年設けられるテーマに沿った服装を身に纏った世界中の有名人がMETで一同を会するというイベントで、簡単に言えばエクストリーム・ファッション大喜利・チャリティー大会。

by Jutharat Pinyodoonyachet, 2023
by John Shearer, 2022
by MIKE COPPOLA, 2021


どれも最高にクールですよね?

映画「メット・ガラ」は大喜利大会の舞台裏、企画から開催に至るまでの担当者達の悪戦苦闘にスポットを当てながら、ファッションとアートの関係性も射程に捉えた作品。ファッション・ドキュメンタリー映画の名作だと思う。主人公はPRADAを着たAnna Wintour、ではなく、服飾部門のキュレーターであり、メット・ガラ開催の実務責任者であり、Thom Browneを着たAndrew Bolton。

映画はボルトンの語りから始まる。ファッションというローカルチャーを美術館というハイな場所で展示することの難しさと意義に触れ、「ALEXANDER McQUEENの回顧展、”SAVAGE BEAUTY“は美術批評家の見方を変えさせ、ファッションもアートの一つであることを証明した画期的な展覧会だった」(意訳)と自画自賛している。



リー・アレキサンダー・マックイーン!
圧倒的な創造力の故に付けられた異名は、天才、神童、キ●ガイ、ファッション界の悪ガキ、アンファン・テリブル、ファッション界のフーリガンなど数知れず。1996年に若干26歳でBritish of the Yearを受賞(以降1997年、2001年、2003年の計4度受賞)。翌1997年にGIVENCHYのデザイン・ディレクターに就任。2003年にはCFDAの国際賞の受賞に加え、大英帝国勲章も受章。2004年にMenswear Designer of the Yearを受賞。1990年代から2000年代を象徴するファッションデザイナーの一人となったが、2010年2月、40歳で自死を選んだ。

彼が生まれ育ったイギリスのファッション教育においては、すでにレジェンドであり、オーセンティック。日本で言えばヨウジヤマモトのような扱いになっている(いい意味で)。
しかし、リーの死後10年以上が経った今、その功績を日本で知る機会はほとんどなくなってしまった。リーの右腕だったSarah Burtonが引き継ぎ、ブランドは存続しているが、寛解したデザインへと様変わりしている。TWICEのMINAとBLACKPINKのroseがたまに着用していることを除くと特筆すべきものは少ない(このnoteを書いている最中に、サラも同ブランドから去ることが発表された)。

だが、ボルトンが主張するように、マックイーンが伝統的な美術専門家のファッションに対する解釈を変容させるだけのインパクトを持っていたのであれば、その偉業は是非抑えておきたいものである(以下、「マックイーン」は本人期のブランドを、「リー」は本人を指す)。

ボルトンはマックイーンの何を評価したのか。それはファッションにとって何を意味したのか。いや、もっと根本的な話として、リーをファッションデザイナーという枠組みの中で評価することはリーとその創造性をより深く知る上で適切な方法なのだろうか。もしリーがファッションデザイナーに留まらない存在だったとしたら、彼を深堀りすることでどんな価値を見出すことができるのか。

これらの問いに対する僕なりの回答を日本語で書き残すことを最終目標に設定し、リサーチを始めた。ところが、リーの生涯について日本語で正確に知ることがそもそも出来ないことに気づいた。たとえば、VOGUEでも(外部ライターへの委託記事であるけれど)誤情報や誤謬が散見される。チャールズ皇太子のために作ったジャケットの裏地に”I AM A CUNT”と書いて「いない」可能性があるし(当時勤務していたテーラーの公式回答。Wikipediaの英語ページにも明記されている程度には有名) 、Central St. Martinsの影響度は少ないどころか本人が「Everything」と語っているし、彼はスコットランド出身では「ないかもしれない」、とかとか。

リー自身、「コレクションは自伝的だ」と述べている。だからそのデザインを適切に理解、評価する為には、彼の歩んだ道のりを出来るだけ正確になぞる必要があるだろう。そういう訳で、ボルトンが示唆する崇高で険しい旅路を素足で踏み出す前に、今回はAndrew Wilsonの”ALEXANDER McQUEEN BLOOD BENEATH THE SKIN”(2016)を主に参照しながら、Lee Alexander McQueenの生い立ちをまとめることにした。

とはいえ、リーの波乱に満ちた生涯、ブリブリに滾っている時の与太話のひとつひとつを取り上げるとキリがない。客観的な事実を概観する、またしばしば誤解されてきた彼のキャラクターを好意的に理解するため、やや乱暴ではあるが彼の生い立ちを3つの時期に区切る。

まずは、生誕からファッションデザイナーを明確に志すようになった10代後半まで。幼少期のうちにデザイナーとしての方向性を決定づけることになる3つの契機があった。それは母との極めて強い精神的な結び付き、義兄による性的虐待、ゲイの自覚である。
O-Level(日本では高校に相当)を16歳で中退した後、高級注文紳士服屋へ見習いカッター(裁断・縫製担当)として入社。そこで得た高度な縫製技術を強みとして衣装制作会社と複数のファッションブランドでデザイナーアシスタントとして勤務した。師事したデザイナー達の独特のデザインプロセスに触発され、リーはファッションデザイナーになることを決心した。

次に、ファッションデザイナーとしての教育を受けた後、自身のブランドを設立してからGIVENCHYのデザイン・ディレクターの就任前まで。師の一人、John McKitterickの薦めにより、ファッションデザインの方法論を学ぶためにCentral St. Martins(以下CSM)の修士課程(MAコース)に入学した。CSMでの生活は非常に充実していたようだが、その中でもリーの卒業コレクションを見た、ALEXANDER McQUEENの「名付けの親」であるIsabella Blowとの出会いはファッションデザイナーとしてのキャリア形成の重大な転機になった。
92年に自身の名を冠したファッションブランドを設立後、挑発的なテーマ、際どいデザイン、過激なショー演出ゆえすぐに賛否両論を巻き起こした。彼の美学、類稀な才能の片鱗は随所に垣間見えるものの、後のコレクションと比較すると粗さが目立つ。金銭的困窮の影響もあったが、CSM出身者にありがちな、独創的なコンセプトを完全に具体化する技術が追いついていなかった時期と呼べるかもしれない。

最後に絶頂と終焉。LVMH傘下、GIVENCHYのデザイン・ディレクター就任(1997年-2001年)は、リーのデザインに大きな影響をもたらした。LVMHからの給与を自身のブランドに投資することで、高クオリティの衣服とショーを発表出来るようになった。そして何より、クチュリエの技術を吸収することで、表現の幅、特にロマンチックと形容されるテイストを印象付ける柔らかさ・軽やかさの扱い、が格段に広がった。
遂に理想的なALEXANDER McQUEENの世界を遂に具現化出来るようになった。ハイライトとして取り上げられる「Joan」、「No.13」、「VOSS」等のコレクションはこの時期に発表された。そして2003年には栄誉あるファッション関連の国際的な賞を総舐めにした。だが、デザインチームのメンバーや親密な関係にあったパートナー、友人によると、絶頂の最中にリーのメンタルは極限まで追い込まれていたらしい。2004年に「21世紀のファッションデザインはALEXANDER McQUEENから始まったと後世の人間は振り返るだろう」と自ら予言しているが、これは自信の過度な表れでも、十八番のメディア向けのビッグマウスでもなく、終末思想に既に取り憑かれていたことの示唆ではないだろうか。拍車のかかるコカイン依存、HIVの感染、盟友イザベラの自死、愛犬の癌罹患。そして最愛の母の死。最早彼を現世に留めておくものがなくなってしまった。



「ファッションは着用者に力を与えるメディアだ」とよく言われる。なるほど、リーがデザインする力強い衣服は、実体を持っているという点において「鎧」として喩えるのが適切だろう。だが思うに、あるレベルを超えた衣服は身体に作用するオブジェとしての存在を超越し、その輪郭線は溶け出し、メンタルに作用する力そのものに為るのではないか。それ故に、古来よりヨーロッパ人は宗教的タブーの一方で、服飾文化の価値を認めざるを得なかったのではないか。

リーによる衣服は膨張し続ける力であり、それは愛の放熱だった。死後13年経過してなお、彼のファッションへの愛は勝利の歌を静かに奏でている。
忙しなく、無意味に、あてもなく流転し続けるモード産業の渦の中、目を瞑り、微かに聞こえるその悲しくも優しいメロディーにひと時だけ耳を傾けたい。ファッションを愛し、命を捧げた一人の人間への遅すぎる手向けとして、畏れ多くもこのnoteを捧げたい。


"LOVE LOOKS NOT WITH THE EYES, BUT WITH THE MIND."

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