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最近

 "ノスタルジー"ということについて考えている。はっきり言えるのは"ノスタルジック"とは峻別されるべきで、そして単なる懐古主義になりかねないこと。過去の様々なものことをデフォルメして美化(記憶補正)しかねないこと。

 それでも自分が何か心動く瞬間というのには遠い時間を平気でテレポートする感覚みたいなのがある。ここにいながらにしてここにいない。みたいな。身体の記憶というのか。

 さっき考えていたのは"ノスタルジー"が限りなく電子的な領域に寄っているんじゃないかということ。サブスクとかYoutubeとか。音楽を聴いたり動画を見たり、もちろんその見ている時間経験もそうだけど、その音楽や動画を探してクリック(分岐点の選択)をすると、関連する音楽や動画が表示される。その中からまたクリック(分岐点の選択)をするという身体的な時間経験を繰り返しいるうちに、クリック(分岐点の選択)をしたものからさらにクリック(分岐点の選択)をしたものへと枝分かれしていく。それらの反復はやがて道みたいに繋がり進むんだけど、あるところで既視感のあるクリック(分岐点の選択)に帰ってくる。

 遠い昔にその音楽や動画を聴いたり見ていた時の体勢・筋肉への力の入り方・鼻が詰まっていたとか、汗ばんでたとか、死にたいくらい落ち込んでた過去の対比で今に安心とか、長時間肘をついてスマホを持っているから痛くなってきた限界の瞬間とか。入試直前に聴いてた曲はやはり当時を感じる。

 話が逸れるようだけど、2019か2020にPornhubが一斉に垢BANされた時、俺の記憶とクリック(分岐点の選択)によってできた膨大な道がほとんど消えちゃったのは、すごく悲しかったんだな。あの電子空間上の道と景観にはもう二度と戻れないんだと。

 逸れた話はさておき、小瀬村ゼミでの映像作品の制作にとりかからねば。

 

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