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趣味は現代美術の素

 久しぶりにnoteを綴ることとなった。某Yさんについて綴る。Yさんは通っている予備校の学生講師で、私の同級生Tくんを介して話を聞くきっかけがよく発生する。今回も、Tくんを媒介にYさんの話を聞くことができた。

 Yさんは自分を趣味人だという。まあそうだろうと私は感じる。Yさんは私に尋ねる。
 『上野趣味は?』
 『…絵を描くことです。』
 『ほかは ?』
 『…』
 『(良くない)』
と、口ぱくと首振りで表現している。

 Yさんからすると趣味とは現代美術の素なんだと思う。趣味そのものというよりかは趣味的眼差しとでもいうべきなのか。それはさまざまな自分の外部のものことに興味を持ち、欲求することなんだと思う。
 例えば”ユーロミリタリーのトラウザーズ”という趣味があるとする。年代により、生地、タグの記名/無記名、ジッパーフライ/ボタンフライ、サスペンダーボタンの位置や数、サイドアジャスターの有/無、ステッチ、シルエット、カット処理、タックの数、仕立て屋の違い、など挙げはじめるとキリのない要素がある。それらを実際に見たり履いたり、未知に出会ったり、その未知を少しでも知ろうとするために軍の編隊や活動地域、活動内容、着用シーンについて調べたりする。これは欲求するということではないか。
 あるひとつの趣味に欲求すると、もはや趣味として括りきれない、時間や距離を越えた世界の拡がりを体感することになる。

 現代美術も同様で、日常の何でもないようなさまざまなものことに欲求し、見方や捉え方を少しズラすだけで、無限とも思える拡がりを体感することになる。また、現代美術として表現することで私たちの世界は更新され、新しい拡がりを帯びた世界となる。それをYさんは『ロマンチック』『すてき』と言っていた気がする。

 某所某日、私は被災した。不謹慎な表現かもしれないが、ふさわしい表現だ。Yさんという巨視的な災害を前に、彼が発する一文一句、趣味考、現代絵画考、現代美術考、表現考について深く考えさせられることになったのだ。個人的にはリーマンショックよりも超ショックだ。無論、そんな最中に趣味について訊かれても応えられようわけがない。その結果、私の口からこぼれ落ちたのは絵を描くこと。だった。

 何が良くないかって、絵を描くことを”趣味”と自明したこと。藝大進学を志すことは、現代美術を志すことだ。そんな人間が、拡がりのある現代美術に対して、”私ー絵”という閉じられた関係であるものを趣味と自明したことに付随し、趣味が絵を描くことしかないのなら、全ては、絵のためにになってしまうことも露呈したのだ。このような絵が目的になってしまっている状況は同じく閉じられており、少なくとも、現代美術を志す人間としては豊かではないのかもしれない。受験絵画に疲弊しているのではないかと指摘された。たしかに、いつからか、それはきっと予備校に通うようになった時からだろう。生活の中で全てが絵を中心に考えられるようになった。

 ここまで考えて、幼少の頃から思い返すと、絵を描くことは私にとって、ごく自然な生理的欲求で、もちろん虫を探しに行ったり、図鑑を見たり、電車やバスの台車やパンタグラフを見たり、映画を観たりもしていた。それらのアウトプットとして、絵を描いていた気もしてくる。だから、”私ー絵”の関係において、とても拡がりがあったという紛れもない事実があるし、絵を描くことが趣味であったことは否定しない。
   とすると、これより先は現代美術として絵(絵画)を描くこと、そして作品(絵画に限らず)として私が表現することについて考えなければならない。しかし、今はどうあれ受験中だ。分からなくなりかけても、私はまずここに集中して貫徹させなければならないということもまた、現代美術に向き合うということに繋がるのかもしれない。


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