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この世に産まれた意味 私の出生編

こんにちは

ほぐしびとwordsです。

長らく投稿するのに時間がかかってしまいました。

自分を見つめなおすってとても辛かったり、悲しかったり、切なかったりで書くことを躊躇していました。でも今回コロナで志村けんさんが亡くなり…私の中で動くものがあったんです。芸能人の方が亡くなって初めて大泣きしました。嗚咽です。なぜ?どうして?こんなに悲しく切なかったのか…私の生い立ちが関係してることに気付いたのです。いや…気付かされたのです。仲間って最高ですね。

では本題に入ります。

母は私を妊娠する前に兄と1っ違いの子を妊娠。兄の病院通いと仕事で忙しく、身体を休める時間がなかったのもあり5か月で流れてしまったようです。もしその子が産まれていたら私は存在しなかったと母に言われました。

1972年4月5日AM4:00頃 

ナヨという名前をいただきこの世に産まれてきました。

名付け親は父、奈良の偉大さを与えてもらうという意味のようです。

父は奈良時代の文化、書物などに深く興味があったようで万葉集や、古事記、日本書紀など読み漁っていた時期に私を身籠った。男の子はいらない。女を産め!と母に言い続けた。母はうんざりしていたようで、兄に手がかかるのにまた妊娠。流れるだろう!子供は一人で十分と願っていたようですが、しぶとく私はお腹の中で成長し続けたようです。

父はお前は女の子。とお腹に話しかけてくれたいた一方で、母は気持ちがどんどん落ちていったと話してくれた。産まれる前から私は母に愛されてないんだって…お腹の中でも感じていただろう。

私を産んで母をすぐに子宮を結んだとも言っていました。

父にとっては念願の女の子で、この子の為にもっとたくさんの知識を入れて学ばなきゃと思ったようで…母におにぎり屋を譲り、またもや広告代理店に就職。転落人生が始まります。

母は兄と私そしておのぎり屋さんで手がいっぱい。売り上げも上がらない。父のお給料はあり得ないぐらい少ない。貧乏まっしぐら…

私は産まれつきアレルギー体質でミルクは飲めない。でも母はおっぱいが出ない。隣に住んでいた産後間もない奥さんに頼み込んでおっぱいをいただいたとか…哺乳瓶の乳首にもアレルギーが出たのでお隣さんのおっぱいをじかのみ。もしくは脱脂綿に含ませて吸っていた。

石鹸にも反応して全身湿疹、畳の上に寝かせると湿疹。しまいには喘息。

兄の斜頸が良くなったら私に手がかかる。本当にノイローゼ状態になりますよね。

朝も早くから起きておにぎり屋の準備、私をおんぶしながらおにぎりをむすぶ。朝来るお客様に販売。また10時からお昼に来るお客様用におにぎりをむすぶ。そして販売。夜来るお客様用に15時からおにぎりをむすぶ。17時から販売。

その間に兄と私の世話…兄は手がかからないけど私は背中で泣くだけ…

生きていくのにこのままでは家族みんな不幸になると考えた母は父に相談なく私を乳児養護施設へ。私…6か月の時でした。

父は母のしたことに反対はしなかったようです。まあいえる立場ではないよね‼

私は当たり前ですがこのころの記憶はありません。父母がいることは知ってる。でも会ったことがない人。2歳半まで乳児施設でお世話になりその後春日井の児童養護へ移動。移った時も記憶にないかな???

その頃家族は借金で二進も三進もいかず、北海道に移住。母の両親がいる札幌に。頭を下げ、お金を借り、初孫を抱かせてあげたようです。そこには当たり前ですが私はいません。祖父母はあきれていたようです。施設によく謎のプレゼントが届いたのですが、祖父母からのモノだったと最近知りました。

父母は札幌でお茶屋さんを始めます。またもや父のインスピレーションで家族を巻き込み。静岡よりお茶を仕入れ、小分けにして札幌、石狩、江別、芦別、赤平、富良野とお茶を配達してまわる。これも…最初は父が頑張っていたのですが…またもや広告代理店に就職。どんだけ映像が好きなのか???

今回のお話はここまで。次回は私の施設での生活を書いていきますm(__)m
読んでいただきありがとうございますm(__)m






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