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45のこと。

ふと思った事を書きます。
死後は無であって欲しい、と切に願う。
意識もいらない。痛覚が無くなればそれで良し。
頚椎症や腰痛にも長年悩まされてきたもので
痛みからの解放は重要。

どこそこの墓に入る〜なんて
自分がそれを味わってる想像がつかない。
共同墓地でよい。
鉱物好きだと石も劣化し砂になる意識が常にあり
墓石も永久でなく原子に戻ってく。

風にも雲にもなりたくない。
池のように天から下界を覗き見たいだろうか。
今の時代はドローンの映像がありふれていて、
わざわざ要らない気がする。
他の生命を少しでも助ける力が与えられれば
上から少しは手伝うかもしれない。

わずかに残った自身の物質に未練はないし
その状況になった時、それほどの大変化の後
この世での時間に関心が失せている気がする。

生命でないなら世界に関わる意味も見出せず
広大な暇つぶしでしかない。
そう思うのは私だけだろうか。

不思議なほど死後のイメージが湧かないのは、
両親の故郷と墓が自宅からは遠く
墓参りの経験が数えるほどしかないためだろうと
思い至った。そして車での移動が必要な土地で
過去の記憶だけではこの先一人では辿り着けない。

先祖を定期的に参り感謝を伝え
ご家族で大切にしてきた共通観念が
習慣的に身についた人々からしたら
目を剥かれそうで声を大にしては言えないが、
素朴に手を合わせ何を念じたら良いか解らなかった。
何の時間だ?と。
初詣と似た種類のものかとの認識でいた。

罰当たりな事なのだろうけど、
当然の行為すぎてかカチッとくる解説に当たる事もなく皆の素振りを真似する幼児のまま成人に仕上がった。

核家族化が進んだ時代に育った子供の内には
一定数そんな宙ぶらりん気分のままに
大人になった人々が存在するはずだと思う。

彼岸にスーパーに並ぶものに馴染みがない。
祓い清める儀式だろうか、と恐々の気持ち。
今に至っては分析を諦めた。
どう探ろうと物理的距離が縮まるはずはなく
相変わらず先祖の墓が遠いままだからだ。

日本古来の神道の概念には
形にする概念が全くなかったから、
習慣以外は残されたものがなく寺も神社も
後付けで造られたものだとの考察を聞いた事があって
だからピタッとハマって来ないのだろうか、と
けっこう興味深く思ったことがある。

過去に
ある意味難病である電磁波過敏症を発症し
帯電障害による痛みの感覚と不眠の症状に苦しみ
辿り着いた治療院が
気功療法と地鎮もする治療家さんで
アンタは悪いものを拾いやすい体質だから
それらに近寄るなと警告を受けてるのが
更にややこしい。

そういう場所にこそ立派な樹木が茂り
樹木好きとしては立ち寄りたい魅力的な場所なのに
定期治療の際に何だかバレる。どこを彷徨いた、と。

黙ってやり切って来る私の神経も問題なんだけど、
オーバーな事を言って、またまた〜な本音を押さえ
相変わらずフンフン聞き流してる。
問い正され場合により施術拒否の可能性もあるため
なるべく立ち寄らない。
そう、だから初詣さえ行かなくなった。
寂しい限りです。

自覚なく半信半疑なのに、
言うこと聞いてたら症状が無くなったので
丸々は信じてないものの、折り合いつけて逆らわない。

これだけ この世は厄介で理解不能なのに
来世とかあの世とかは、勘弁して欲しい所です。

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