ひろしまタイムラインへの懐疑点/復員兵はいつから日本にいたか?
1945ひろしまタイムライン がSNSで物議を醸しています。
以下、1954ひろしまタイムラインをひろしまタイムラインと表記します。
1945年にもしSNSがあったらどんなことをつぶやいていたか、というNHKの謎の企画。
第二次世界大戦下の市民から見たリアルな日常をツイッターで日々呟くというものです。
性別立場が異なる三人がそれぞれ原爆投下、復興の混乱した敗戦後の日本の様子を呟いています。
問題になったのは在日韓国人へのヘイトに繋がりかねないツィート。
【問題になったのは実際に日記には書かれていない部分】
【1945年8月20日】
— シュン@ひろしまタイムライン (@nhk_1945shun) August 19, 2020
朝鮮人だ!!
大阪駅で戦勝国となった朝鮮人の群衆が、列車に乗り込んでくる!#ひろしまタイムライン#もし75年前にSNSがあったら
【1945年8月20日】
— シュン@ひろしまタイムライン (@nhk_1945shun) August 19, 2020
「俺たちは戦勝国民だ!敗戦国は出て行け!」
圧倒的な威力と迫力。
怒鳴りながら超満員の列車の窓という窓を叩き割っていく
そして、なんと座っていた先客を放り出し、割れた窓から仲間の全員がなだれ込んできた!#ひろしまタイムライン#もし75年前にSNSがあったら
この20日と、19日のもの〜
【1945年8月19日】
— シュン@ひろしまタイムライン (@nhk_1945shun) August 19, 2020
うわ…まさか、まただ
逃げ惑う避難民たちを押しのけて、抱えきれない大荷物を持った屈強な男たちが乗り込んできた!
支給されたばかりの新しい軍服。復員軍人だ…#ひろしまタイムライン#もし75年前にSNSがあったら
復員兵に関するもの。で、よくよくサイトを見ると、とても分かり辛いところ、NHK公式HPに
https://www.nhk.or.jp/hibaku-blog/timeline/genbun/shun/434541.html
※ご本人の日記は、8月17日~27日まで空白です。
8月15日~21日までのツイートは、後年ご本人が書かれた手記とインタビュー取材をもとに掲載しています。
(新井俊一郎『激動の昭和を生きて』2009年)
と書かれています。
ですので、ここに掲示した19〜20日前後のものは、創作、とまでは言わないまでも、実在しない「しゅんくん」の呟きなのです。
もちろん、当人は実在しておられ、本当にそういう目にあったかも知れませんが、実際には書かれていない部分ですので、かなりの部分が誇張されたものであることを疑わざるを得ません。
そして復員兵ですが
いろいろ疑問だなぁ。
— barusan (@daifuku29maeda) August 21, 2020
そもそも、8/20の日記は無く、後年書いた手記とインタビューによるから、日記よりは思い違いが多く有り得る。
8/20に復員兵ってあったのだろうか?
進駐軍もまだおらず、調印もまだなのに。 pic.twitter.com/n6XJ22vGCg
の疑問を受けて短時間で調べられるものだけを見ますと、9月から10月頃にかけて復員兵が帰還しています。
●「復員兵」のwikiには
「復員輸送は1945年(昭和20年)10月から始められ、翌1946年(昭和21年)春から8月がピークとなった。その後は艦船数を徐々に減らし1947年(昭和22年)夏ごろまで続けられた。」
とあり、8月頃に多数の復員兵がいた記述は不可解なものがあります。
●公文書に見る終戦_復員引き上げの記録_ より
1945年09月02日南朝鮮からの引揚第一船興安丸が仙崎港入港とあります。
●氷川丸のケース
「9月15日より翌年8月15日まで、病院船のまま復員輸送にあたります。」
●資料 引揚死没者慰霊祭の挙行・「引揚船入港の地加治木」の碑建立に関する委員会活動記録及び関係資料(2)
61Pより〜「復員輸送はこうして行われた」から
第一回のフィリピン(一般人含む)復員輸送任務
第一回目は10月とあります。
こんなところでしょうか...
南方から「飛行機」で帰還した海軍の上級軍人の話を聞いたことがありますから、「復員兵」の検索をどのように定義づけるから難しいものがありますが、やはり終戦から5日あまりで「抱えきれない荷物を持った」「新調の軍服」を着た南方で飢餓に苦しんだはずの屈強な多数の「復員兵」が電車内で我が物顔...というのは誇張を感じます。
朝鮮人の様子もこうなってくると、かなり眉唾ですね...
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