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闘病ノート⑤

闘病ノートを書くモチベーションが低下している。理由は分かっている。私は今病と闘っていないのだ。闘病とは痛みに耐えることだと最初に書いたが、今は私を眠らせないほどにさいなむような痛みや、筋肉の動きを邪魔するほどの痛みを感じていない。胆嚢にドレナージを施術してもらったため、右脇腹に管が刺さった状態ではあるが、起き上がるとき以外は強い痛みは感じない。少し違和感があるだけだ。そして、一旦起き上がってしまえば、ゆっくりではあるが二足歩行ができるし、自分で排尿排便もできる。とはいえ、積極的に歩き回るのはまだ億劫なので、終日ベッドの上で休んでいるということになる。今はスマートフォンという便利なものもあるので、外部とのコミュニケーションも容易に取れるし、医師や看護師が定期的に来てくれて言葉を交わすので孤独を感じることもない。何たる安逸であろうか。好きなときに甘味を食べられないこと以外は既に日常の殆どを回復しているのである。今は梅雨時だし、緊急事態宣言下なので、たとえ入院していなくとも外出は控えただろう。そして、ここで私が再発見したことは、五感で獲得された体験はある程度まで脳内で再現可能であるということだ。もちろん五感が直接感じる刺激とは比べものにならないほど弱い。しかし、私は絶食4日目という口寂しさの中、記憶の中のスイーツを思う存分に味わったなである。科学の発展により脳波を自由自在にコントロールできる技術が獲得された暁には、カロリーや健康のことなど一切顧みずにマックフライドポテトを心ゆくまで堪能できるではないか。結局、我々の体験は全て脳の感知情報に換価しうるのではなかろうか。などと空想を巡らせる。

しかし、昨日のドレナージ施術は麻酔をしてもらったとはいえ、かなり痛かった。その予後も含めて、この病に伏せてから最大の痛みの山場であった。まず、私が手術台に乗せられた状態でコントが始まったのである。その場にいた医療スタッフ全員が、あれがない、これがない、1番と4番が合わない、おかしいな…と騒ぎ出したのである。勿論私は衰弱しきっているし痛みに耐えているので身動きさえとれない。茶髪のチャラそうな看護師のお姉ちゃんが大丈夫ですよーと何度も声をかけてくれたが全く大丈夫だとは思えない。手術が成功裡に終わる要素はどこにも見当たらない。案の定、手術は試行錯誤しながら苦戦したようだ。手術が終わるまでの間は本当に痛かった。私は最悪の事態を想定し、受け入れた。何とか施術チームの奮闘の甲斐あってドレナージは成功した。私の胆嚢に滞留していた黒く澱んだ粘度の高い胆汁は排出され、その後胆汁の色はみるみるうちに薄くなっていった。
最初からブラックジャックや華佗みたいな人はいないので、誰も責める気なんて起こらない。ただ、やはり医療制度は公共部門として、公的にしっかりと支えるべきだという信念が強まっただけだ。
手術後、最初は立ち上がりと起き上がりの際に激痛が走り大いに呻吟したが、翌朝、看護師がドレナージ周辺の貼り替えをしてくれると楽になった。それで安穏の中、kindleで読書を堪能したのである。読書をする時間があるというのは素晴らしいことだ。(つづく)

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