見出し画像

続・闘病ノート②

一発のおならが発射されるのを、これ程迄に待ち焦がれた事は、四十有余年の我が人生において初めての事であった。

手術後の経過は良好であったが、一つだけ懸念事項があった。それは、手術終了後、丸三日間、肛門からの排ガスが途絶えたことである。

お通じがないまま7回食事をした。手術前に胃腸を空っぽにしていたとはいえ、流石にだんだん食べるのが苦しく感じられるようになってきた。食べたものが渋滞して奥に進まず、あまり空腹を感じないのである。最後の方の食事では、野菜や汁などをよく咀嚼して何とか呑み込むのが精一杯で、ほとんど残す羽目になった。

手術から4日目である日曜日の朝になると、流石にもう少しで出そうな感覚はあったものの、何度トイレに入っても排尿があるだけで、下腹部の便意だけが強まって来た。お腹が張っていて苦しいので歩くのもしんどい。それでも腸の蠕動運動を再活性化するために歩かなければならない。

開腹手術をした場合、腸が傷口に癒着して腸閉塞を引き起こすことがあるという。今回は腹腔鏡手術なので小さな孔を4つ開けただけであるが、全くリスクが無いわけではない。腸閉塞になったら厄介である。こればかりは確率論なので人事を尽くして天命を待つしかない。私に出来ることは痛みを堪えながら歩くことしかない。

希望していた最短の月曜日退院は無くなった。腸閉塞の疑いがあるため再びレントゲンを撮ることになった。ある種の諦念に包まれる。執刀医の先生は血液検査の数値などを見て、まもなくガスも出るだろうし大丈夫だろうと言ってくれたが、排便はおろか屁すらでない状況が3日も続いている身としては流石に不安になる。

入院前に熱田神宮を詣でて病気平癒の祈祷をしてもらったが唯物論に染まってしまった身としては何の気休めにもならない。多少は神秘主義的傾向があった数年前だったならば「病は気から」ということもあるし少しはプラセボ効果の恩恵を受けられたかもしれない。正しさは必ずしも人を幸福にはしないのである。正しさとは言わば、身も心も健康な強者の論理であろう。

病苦と不安が募れば心は荒む。目に入る情報が劣悪であればそれに拍車がかかる。私自身の弱さが露呈し、私は自暴自棄になりかけていた。
だが、神は私を見捨てなかった。ついに、その時が来たのである。

3日ぶりのおならが出たのである。
南無グレタ観音大菩薩。

ガスが排出された事で身体は思いの外軽くなった。気分的な要素もおそらくはあるだろう。病棟内を歩き回る足取りも軽快になる。微かな痛みがないわけではないが普通に歩けるようになった。

私は嬉しさのあまり本日の担当看護師さんを呼び止めて排ガスの件を報告した。美人看護師さんは満面の笑みで喜んでくれた。おならをした事で、これ程迄に人様に喜んでもらったのは生まれて初めてである。病院とはそのような場所なのだ。私のおならが出ないことがナースステーションの懸念事項の一つとして共有されていたのである。

一方で、病苦に苛まれ続けている他の入院患者がいる。亡くなる方もいる。御遺族の涙もある。病院とはそのような場所なのだ。

癌、糖尿病、高血圧、痛風、結石、血栓など、現代病の多くは生活習慣、とりわけ食生活に起因している。マーケティングとは我々の欲望を不必要に掻き立て、不必要なものを食べさせるためのテクノロジーの集大成である。病苦の実際を知れば食の快楽と病の苦痛はトレードオフの関係にあると分かる。食の快楽を金銭との交換関係において捉える次元に留まる限り、病は我々の身体を蝕み続けるのである。

結論
①神秘主義に還れ
②菜食主義は素晴らしい
③資本主義を解体すべし

(つづく)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?