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闘病ノート④

入院一日目の夜は七転八倒の続きであった。前日との違いはナースコールがあることである。苦しい時に看護してもらえるというのは本当に有り難いことだ。点滴で鎮痛剤を入れてもらうと痛みが和らぎ眠りに落ちる。しかし、1〜2時間で鎮痛効果が消えてしまうため、また看護師を呼ぶ。その繰り返しが朝まで続くのだ。1回だけ少し強めの鎮痛剤を入れてもらったが、顔が痒くなった。弱いアレルギー反応があったようだ。それでも薬が効いている間はぐっすり眠ることができる。鎮痛剤のおかげで寝ている間はよく覚えていないが夢を見ていたようだ。普段の夢との違いは、何らかの情報をひたすら反芻している感覚である。内容は余り覚えていない。まるで脳の情報処理回路がショートして同じところを電流が回り続けているようだ。意識の混濁状態とはこのような感じであろうか。旋律も反芻していたようだ。脳内で同じ曲がエンドレスに繰り返されるのだ、私の場合は1日目は「威風堂々の歌」、2日目は「インドネシア・ラヤ」そして3日目は美輪明宏さんの「ヨイトマケの唄」が鎮痛剤で朦朧とした脳裏に流れ続けた。何の脈絡もない。特に「威風堂々の歌」は友人のS君が舞い、別の友人のS君が詠唱する鮮明なイメージまでが付随的に再現されていた。私は無抵抗なまま記憶の暴走に身を任せるしかなかった。

朝になると痛みも少し和らぎ、予定通り胃カメラ検査とMRI検査を受けた。胃カメラは薬で意識を飛ばして行われたので苦痛はなかった。MRIは耳栓をしてもガンガンと鳴り響く音の中で機械音声に息を吸って、止めて、楽にして、と指示されながら20分程続いたので、少しきつかった。検査室までの往復は車椅子に乗せてもらった。体力的にも衰弱しきっていた。
戻ってから医師の触診があり、明日は再度血液検査とCTを撮るという。その夜は前日ほど多くは鎮痛剤を使わずに眠れたと思う。胃カメラ検査が終わったので水を飲めるのが嬉しい。絶食は依然として継続される。

5月18日は私の44回目の誕生日であった。多くのお祝いメッセージが届き、お礼対応に追われた。入院していることを知り、心配してくれる人も多かった。誠に有り難いことである。

血液検査とCTの結果は、胆嚢炎が進行したとの事だった。痛みの位置も、鳩尾と右腹筋上部から右脇腹へと移行したようだ。入院生活にも慣れてきたため、寝台の上でなるべく動きを最小限に抑え、呼吸を小さくすることで痛みに対処するコツも覚えた。しかし、トイレに立つときは力の入れどころを間違えて患部に激痛が走るということもあった。その痛みの度合いたるや前日までのものと質的に異なる凄まじいものであった。絶飲絶食とはいえ、点滴で水分を吸収しているため、日に数度の排尿が必要なのである。排尿すると少し身体が楽になるということもある。流石に暇を持て余してきたので本闘病ノートの作成を始めた。

深夜のナースコールの頻度は減ってきた。5月19日も平和な朝を迎えた。
いつもどおり検温と血圧を測り、点滴を交換してもらう。これらは看護師がしてくれるのだが、担当の看護師は毎日交代するし、日勤と夜勤でも交代するため、様々か看護師がいることに気づく。隙なく卒なく業務をこなす者もいれば、仕事が雑で手際の悪い者もいるし、言葉遣いの丁寧な者もいれば、患者を子供扱いするような言い方をする者もいる。子供扱いされるのは大抵患者側に原因があり、こちらが大人の対応をすれば看護師の言葉遣いも当然変わってくる。
医師が来て夕方手術を行うと説明した。肋骨の間から針を刺して胆嚢に管をつなぎ、胆汁を直接外に排出させるという。そして抗生薬で炎症が治まったら、いよいよ胆嚢摘出手術が行われる。直径3cmの石ができているため、全摘の他には方法はないそうだ。あるとしても物凄く時間がかかってしまうとのことだった。(つづく)

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