蜷川実花のこと。そして、新作「Followers」

あれは、いつのことだったか。2000年前後だったろうと記憶している。
私がカメラ&写真雑誌の編集をしていたころのことだ。若手写真家へのインタビュー記事を企画した。もともと、ずっとやりたいことであったし、私のたずさわっていた雑誌はとても保守的で、花鳥風月的なアマチュア写真が主流であったので、そこに風穴を開けたい気持ちもあったからだ。

インタビューワは、覆面で「ある人」にお願いした。その人の名は、ここで明かすことができない。何度も企画の打ち合わせをして、その人のペンネームは、三軒茶屋のバーで決まった。神庭一志。現在書いている小説にも登場する人物である。

連載最初のインタビューイは、蜷川実花に決まった。彼女は、すでに一定の評価を得ていたけれど、当時のカメラ雑誌の読者たちには無名の存在であっただろうからだ。彼女の父親である蜷川幸雄の名は、知っていたかもしれない。

彼女の名前を初めて知ったのは、リクルートが銀座で開設しているギャラリー、ガーディアン・ガーデンだ。当時は、ひとつぼ展、現在の1WALLである。要するに、若手作家たちの登竜門的選考企画展であった。翌年に個展開催ができる権利を獲得するグランプリの審査は公開で行われたので、ひとつぼ展に展示されていた一次選考を勝ち抜いた応募者たちは、その審査会に皆集まっていた。

その一翼に、蜷川実花もいたというわけだ。彼女はまだ多摩美術大学の学生で、モノクロームのセルフポートレイト作品を応募していた。プリント技術は稚拙で、黒の締まらないRCペーパーの作品でもあり、あまりパッとした印象もなかった。父親の七光りで受賞させるような、そんな不正は、ひとつぼ展にはなかった。公正な公開審査により、彼女の作品は落選した。

そんな彼女の作品を変えたのは、ドイツ&オランダ連合(ひょっとしたら、もうオランダ単独企業だったかも?)のアグフア・ゲバルト社が出していたウルトラ50というフィルムとの出会いからだった。独特の発色をするそのカラーネガフィルムは、彼女の世界観とマッチして、作品レベルをグンと上げたのだ。

そして、当然のように彼女はグランプリを受賞する。その後、キヤノンInc.が主催していた写真新世紀でも優秀賞を受賞した。

とつぜん、彼女はスターダムにのし上がり、広告写真業界でも自分流の世界観を発揮して活躍してゆく。ライティングの技術は、あとから学んだ。おそらく、撮影スタジオでは、雇われアシスタントのほうがライティング技術は上だっただろう。しかし、技術だけでは物は撮れても、クライアントとアートディレクターの求めるイメージを再現することはできない。彼女には、その才能があったということだ。

その後、映画界にも進出する。初めての監督作品は「さくらん」だ。
そして本日、ネットフリックスオリジナルドラマで、再度彼女の監督作品が配信されることを知った。「Followers」だ。

これで、彼女も世界デビューである。
監督業というのは、やはり総合演出をするわけであるから、いわゆる撮影監督とも違う。これには、やはり父親のDNAが影響しているのかもしれない。

冒頭のインタビューで印象的だったのは、彼女の幼少期の思い出だ。父親の所有する「地獄絵」が大好きで、隠れて何度も何度も見ていたのだという。なるほど、この世の地獄を描くには、彼女の才能はぴったりなのかもしれない。そして、地獄になりそうな東京オリンピック・パラリンピックの理事としても。


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