祖父の形見の時計 その①

私がつけている時計の話だ。私に会ったことのある人なら、もう耳にたこができるくらい聞いたことがあるかもしれない。そういう方はスルーしてほしい。

私の祖父、八衛エ門さんは、杉浦家の四代目総領頭首であり、1904年/明治37年に新川で生まれた。長男なのに八の字が使われたのは、末広がりで当時やっていた商を成功させてほしいという思いだったからのようだ。

そのころの杉浦家は、三河屋の屋号で、新川港の一角で酒問屋を営んでいた。八丁堀にも近いが、おもに永代橋付近への居酒屋への配達業が主だった。まだまだ、麒麟麦酒の本社はなかったころだ。

なぜ、新川港かというと、江戸時代の酒の流通は廻船問屋が行うわけだが、江戸の入り口が新川だったということだ。灘の下り酒、会津の登り酒、この二大産地から日本酒が樽で運ばれていたわけだ。

三河の屋号は、まさに先祖が三河商人だったからで、岡崎のあたりから発生したらしい。三河といえば家康公の本拠地であるから、江戸に登るにもなにかと融通が利いたそうだ。

さて、四代目八衛エ門さんの時代は、かなり波乱万丈である。大正中期に尋常小学校を出て、すぐに商いの勉強をはじめさせられた、若いころは、先代に商いのイロハを叩き込まれ、手代以下の修行時代をすごすが、割と目端の効く人でもあったらしい。人身掌握もお手の物で、先々主人と入れ替わることがわかっている番頭筋には可愛がられたという。

そこで覚えた遊びごとがいけない。飲む、打つ、買うは、すでに12歳のころから始まった。もちろん先代の目が光っているので、あからさまには遊べないが、通いの番頭なんかと、ちょいちょい新橋の岡場所あたりまで出かけていたらしい。ずいぶんと金を使ったようだ。しかし、このころ第一次大戦後の成金がたくさんいて、商売はかなり順調だったという。

結婚は1928年/昭和3年で、嫁の祖母きみ子はそのころまだ16歳だった。やはり三河の出の百姓娘だった。

さて、翌年の1929年/昭和4年は、アメリカ発の大恐慌。昭和恐慌ともいわれ、景気は一気に下り坂だ。そのうちに、不穏な空気が漂ってきて、統制派のドン・永田鉄山の暗殺、翌年には226事件だ。日本経済を立て直そうとしていた高橋是清も暗殺されてしまう。いっきに戦争ムードが高まってくる。

それでも三河屋は、わりと安定していたらしい。酒飲みてぇのは、世の中がどうなろうと、やはり飲み続けるてぇもんでね。だから、八衛エ門の道楽遊びも止むことはない。また、このころ三代目が家督を譲って隠居したこともあり、ますます遊びに磨きがかかるてぇしだいだ。

そんな折、1934年/昭和9年の5月11日には、長男の武生が生まれる。総領息子てぇことで、お蚕くるみで大事にされた。しかし、父八衛エ門は、いつも朝帰り。あまり、子どもには興味のない人だった。

日中戦争がはじまり、徴兵制がはじまった。しかし、初期のころは、総領息子には赤紙がこないというのが、当時の主流だったようで、八衛エ門には召集令状はこなかった。かわりに、優秀な番頭や手代が招集され、三河屋の傾きが始まる。

こりゃいかんということは考えたが、中国なんざ先の日進戦争でもコテンパンにやったんだから、すぐ収まるとふんだ八衛エ門は、軍票をたくさん購入した。遊びも続けた。じつは、もうお店(たな)のほうは、火の車だったのだが、きみ子はお金のことはまったくわからない人だった。

そして、太平洋戦争が始まる。最初は威勢のいいニュースがラジオから流れてきた。八衛エ門は、なんだアメリカなんざたいしたことはねぇじゃなーかと、本土空襲が始まるまで、意にも介さなかった。

しかし、戦況はどう考えても悪くなるばかり。大本営発表は、いつも調子がよかったが、お店の景気はわるくなる一方で、支払いを滞らせる居酒屋の亭主がどんどん増えてくる。実際、酒がまわってくる量も、減っていたのだ。

「まぁ、いざとなりゃ、軍票がたくさんあるからな。これで支払やぁいいのよ」というのが八衛エ門の口癖だった。

いよいよきな臭くなってきた戦争に、きみ子はわが子を案じて、親戚筋の三河の家に疎開させることにした。1943年/昭和18年のことである。武生9歳の夏であった。

武生の災難は、まさにここから始まるのだが、それは別の機会に譲るとしよう。

そして迎える1945年1月27日。のちに銀座大空襲と呼ばれる、中央区を襲った56機のB-29は、代々続いてきた三河屋を全焼させた。

不幸中の幸いは、八衛エ門、きみ子をはじめ、三人までに減っていた店子全員が、命からがら大川へ逃げおおせたことだった。

軍票はもちろん焼けて、文無しになってしまった。古い伝手をたどり、深川の富岡八幡宮近くに焼け残った長屋をみつけ、八衛エ門はそこへ行くのだが、妻のきみ子は半狂乱で、近所のばあさんに預けられることになる。

これにて杉浦家はバラバラになってしまった。

つづく。

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