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いのちは尊いということ

当たり前のことが当たり前でない世の中だから、飽きずに懲りずに言い続けること。いのちは尊いということ。薄い皮膚の下にはどんな哺乳類も赤い血が通っていること。針ほどの傷でも痛むこと。ひとは、相手の痛みを、自分で経験しないでも想像しうること。ひとつの命が失われた悲しみは、大勢の人を悲しませ、その悲しみは月日が経っても続きうること。

Cajuinaという曲を演奏しました。ブラジルのバイーア地方出身の音楽家Caetano Velosoさんが仕事で、亡くなった友人の故郷を訪れた時に、友人の実家を訪ねるとお父さんがいました。伝統的なカシューナッツジュースを飲みながら、壁にたくさん貼り付けられた友人の幼い頃からの写真を見て、お父さんと対話したひとときのこと。軍事政権下のブラジルで抵抗運動をし、多くの友人が亡命したり投獄されたりする不安定な世の中でうつ病を発症し、自殺した友人が亡くなった当時、Caetano Velosoさんは心が固まって、涙も出なかったのが、何年かしてお父さんとお話するうちに心がほぐれ、涙が流れたというエピソードがそのまま歌になったものです。

社会というものは、命を育み、世の中をより良く、豊かにするために、様々な機能を発展させてきました。しかし、ある地域、ある国の利益は別の地域、別の国の犠牲なしに成り立たないような利害関係や搾取の構造が作られ、豊かな人々とそうでない人々が存在し、お金も家も職業も命さえも収奪されることが起き、いまだに解決しません。泥沼化する戦争、増え続ける難民、豊かとされる地域でも交通事故に自殺者にと、人の命がとても薄っぺらく軽いものとなってしまいました。人の命だけでなく、もの言わぬ微生物からさまざまな動植物まで、我が物顔の人々によって日々日々、根絶やしにされる命があり、そのツケを払うのはまた貧しい人々であるという状況もあります。

ひとつの命がその生を全うするとき、私たちはさみしくも、満ち足りた気持ちになり、涙は流しても、朗らかな気持ちで送ることができます。けれども理不尽なことで、失われるべきでない時に失われてしまった命は多くのダメージをもたらします。たったひとつの命でさえ、大きな影響があるのに、戦争などにより多くの命が瞬時に消えてしまうような場合には、回復することがとても難しくなります。その自明のことを、忘れないでいられるように。

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