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忘却について

私は「忘れる」ということについて価値を見ていたんだ。
それは「嫌だったんだ」と思っていることを何かで隠して、
「嫌だった」なんて思っていなかった風に装って。

例えば、いじめに遭って辛かったことを小学5年だったか6年だったかの時、親に話したら、いつまでもそんなことを引きずるな、忘れることができないなんてダメなやつだと叱責されたことから、忘れられなくて苦しむことは罪深くて、「忘れる」ことは正しいことなんだと思っていたことに今気がついた。
あと、小さい頃、父とお風呂に入ってて、身体を洗われるたびに股を触られることに対しても、「嫌」「やめて」と言っても「ダメな男に引っかからないように、かわいいと思ってやっているんだぞ」と怒られて、ずっと我慢しなければならなかった。
でも小学3年のときだったか5年のときだったか忘れたが(小学4年の頃はいじめ真っ最中で、学校も家庭も地獄過ぎて記憶がすっぱり抜け落ちている)、同級生が誰かに「まだお父さんとお風呂に入っているの?」とからかっているのを見て、「みんなはもう一緒にお風呂に入ってないんだ、よかった、私もそうしよう!!」と思って、「もう一緒に入らないから」と母に言って父に伝えてもらった。

どんだけ私は本当の気持ちを抑圧して、「嫌だ」って言わないでいたんだろう。
「嫌だ」って言うことが人を傷つけること、嫌われることって思い込んで、嫌われないように「いいよ」をひねり出してきたことか。
人を傷つけないように嫌われないようにとやってきたことは、反対に自分を傷つけ続けることになっていたんだ。
「嫌だ」と言おうが、「いいよ」と言おうが、私を嫌う人は何をしようがどうしようが現れるようになっているのに。
もう、そこに罪悪感を持たないんでいいんだ。
私はどうしたいか、どうありたいか、その目的だけが大事で、嫌も、いいよも、好きも、嫌いも、どれも全く違いはなかったんだ。
心の平安に近づくために、それが役に立つか立たないか、それだけが大事だったんだ。
だから、嫌も、いいよも、好きも、嫌いも、心の平安に近づく目的に使えるならそのどれも使っていいし、使わなくったっていい。
でも、人の顔色をうかがうためにはもう使わない。



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