「誰も好きではなかった」の今は

真我なるハートの勉強会に参加することにした理由の一つに、
「私は誰のことも好きではなかった」ということに気がついて、
これをどうしたらいいのかわからなくて、
それでこの勉強会に入ることにしたのだけど、
さっきやっとわかったことに、
「私は誰のことも好きではなかった」それでいいということ。
「好き」にならなくていいということ。

どうやら私は「特別な誰か」が必要ではないらしい。
アイドルや身近な誰かに憧れや恋慕の感情を持つようなことはかなり希薄で、
むしろ私はなにがしかの行動を「私がそれをしたいかどうか」が基準らしい。
だから、昔、スタレビが好きだったけれど、
別にファンでもなんでもない三谷さんが脱退したことから、
微妙に音楽性が好みではなくなったからあっさりファンを辞めた。
かといって、三谷さんが個人的に始めたバンドの音楽も聞いたけど、
それもやはり違うと感じたので、ファンにもならなかった。

クライミングにしても、
クライマーの誰それがイケメンでカッコいいとかあんまり興味なかったし、
むしろ、様々なルートの情報とか岳人とかの雑誌を見て、
ギャー!!このルート面白そう!!すっげぇ登りてぇ!!って心沸き立った。
この間参加した合気道の全国演武大会に参加した時も、
一緒に組んでくれた女の子が「チョーかっこいい人がいる!!」って騒いでいたけど、
私自身は、ほうほう確かに骨格が整っているねぇ…って思った数分後には風貌を忘れている。
むしろ黒帯の方たちがやる演武を見て、
「おおおお、あの技難しそう!!私覚えられるかな!?」とそっちのほうが気になって仕方ない。
そもそも軽度の相貌失認の傾向があるので、覚えられる顔でないと覚えられない。
イケメンな風貌も覚えられないジャンルに入りやすいので大体忘れてしまう。

「誰のことも好きではなかった」をどうにかする必要は全く無くて、
単に私はそうであることに罪悪感を持ってただけで、
誰のことも好きでなくていい。

「好き」であることに私は価値判断を持っていただけでしかなく、
例え誰かが私を好きでも嫌っていたとしても、
私自身が誰かを好きとか嫌いとかの感情を持っていたとしても、全く持っていなかったとしても、
そこには全く問題なんかなかった。
今はまだ、過去の価値判断の影響が残っているので、
そこに多少の心の痛みを感じるけれど。
でも、そこから離れていくのだな、と感じている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?