運転=操縦は、「高等技術」である。

※この投稿は2007年4月15日にWEBサイト「ウチナーコンボイ通信本部」内のコラムコーナー「余計な一言」に掲載した記事の再掲です。

本日放送のTBS系列「報道特集」を見た。

今日の取材は、大阪のMBS毎日放送で、テーマは「JR福知山線脱線事故」。

一番破壊の大きかった2両目に乗っていて、救出されるも脳死が確実視されていた女性が、奇跡の回復を遂げていく様子を追ったドキュメンタリーだった。

「豆腐を入れた箱を振ったような状態」と担当医が表現した彼女の「事故後の脳」の状態。
それが、一年後には、通常の状態の脳に戻っていた。最近では、報道記者のインタビューにも受け答え出来るようになり、医学的に言うと、身体的には子供も産める状態ではないか、と担当医が語っている。

彼女は、なぜ、回復したのか。

リハビリ中には、激しく抵抗していたというが、抵抗出来るほどに回復していた筋力。
事故現場で発見された直後に口の中一杯にガラスの破片が「詰まっていた」というが、彼女は本能的にそれを飲み込むまいと闘っていたらしい。その後遺症として、意識が回復してからしばらくは、食事をすることを拒んでいた(何かを飲み込むことへの抵抗)という。
そして、最近のインタビューでは、病院でのリハビリ中のことを「なんでこんなに元気なのに病人扱いするの?」ということを語っている。

そこには、彼女自身に秘められた「生きる」という強い意志が感じられる。
私は無宗教な人間だが、もし、そこに何らかの「外的な力」が加えられたとするならば、「彼女を死なせてはならない」という神の意識があるのだろう。私は、その「神」とは、地球そのものだと解釈している。

「人間」が作り出した文明によって、多くの「人間」が犠牲になった。このことを証言出来る存在を、神は残しておきたかったのだろう。


最近に起こったことではないが、最近は、交通手段における事故が多発しすぎる。

航空機の緊急胴体着陸から、自動車事故まで。

特に自動車事故は、飲酒による事故の多発ぶりには呆れるものがある。

私は自転車に乗るが、目的地に着くまでは常に「闘って」いる。
この坂をどのくらいのペース配分で走るか、下り坂のブレーキのかけ具合は、車道から歩道に乗り移るタイミングは…など。まるでロードレーサーの気分だ。

しかし、走る機械を操る者全てが、競技者でならなくてはならないと思う。

速度、車間距離、燃料の有無、進む方角。二輪車においては体重をかけるのバランスまで。
様々な複合的な技術を習得したものが、その「機械」を操縦する権利を与えられる。

飛行機のパイロットや、船舶の操縦士、電車の運転士になるのと、自動車の運転士になるのには、同等の難しさがあるべきである。飲酒してドライバーが出ること自体、常識外れな話である。

出発したから到着するまで、緊張は解けないはずだ。雑談など出来やしないはず。車両を操縦している間は「気を休めてはいけない」のである。

それほどの高等技術を習得し、行使していることを、公共交通機関の操縦士はもちろん、プライベートな操縦者も常に心がけなければならない。


私は、「自動車の免許を簡単に与えすぎるのではないか」と常々思う。

教習所の生徒募集のキャッチコピーにも、「早い!」的な表現が目立つ。身分証明書代わりに運転免許を取得して、マイカーを持たない「ペーパードライバー」も多すぎる。

「機械の操縦」は、高等技術でなくてはならない。ひとつひとつの操縦を積み重ねていくことで、技が生まれ、自分の技に対して誇りが出来てくる。


「自動車と電車は別だろ」でははい。「たかが自動車にそんな大げさな」ではない。

移動する機械は全て同じ。自動車の運転手は、皆常に、F1ドライバーの心構えで運転しなくてはならない。(速いスピードを目指せということではないので、勘違いせぬよう。)


日本航空123便墜落事故から、
JR福知山線脱線事故から、

そして、あまたの自動車交通事故から、私たちは何かを学んで来たのだろうか。何を学んで行くべきなのか。


21世紀、ますます社会の機械化が進む中、私たち一人一人が考えなければならない課題である。

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