蒙昧な日々
近頃5月のせいなのか妙に気分が沈むので、外で読書をしようと思い屋外用の椅子なんぞを調べていたのだけれど、そんなものを買うより公園に行けばいいのでは、とはたと気がついた。しかし立ち上がるのも、服を着替えるのも憂鬱で、うんうんうめき声をあげながら支度をし、ようやく家を出たときにはすでに夕方の空気が立ち込めていた。
どの公園にしようか迷いつつ、けれどあらかじめ決めていたみたいに、桜並木の奥にある公園へ向かう。桜並木、といってもいまやどれが桜なのかよくわからず、ただひたすらに青々と茂っている。ちいさな少年がふらふらと並木道を歩こうとして「そっち虫多い!」と母親に手を引かれ道路に連れ戻されていた。たしかにもう蚊が飛んでいるし、ふと見れば紫陽花が開花の準備を始めている。5月の花のはずのつつじがひと月はやく咲いたと思えば、それにつられるようにしてクチナシが甘ったるい香りをさせ、そしてあっという間にジャスミンの香りがそこに混ざり、ぽつぽつと鮮やかな薔薇もひらいて、梅雨でもないのにもう紫陽花。なんだか、あらゆる季節がいっぺんに訪れようとしているみたい。そういえば、桜が散るのもいつにも増してはやかった。つつじは相変わらず、散っても散ってもずっとそこにある。
せっかくなので陽の当たるベンチにした。西陽が激しく書物を照らし、新品なのに古本みたいな色に染まった。ひとは少なかったが、光がきれいだったから風景のほうに気を取られて、本を膝に乗せたままぼんやり眺めたり、写真を撮ってばかりいた。カメラロールが十分に埋まった頃ようやく本をひらき、そしてその光景にもうっとりとする。波打つように移動する影と、生き物みたいに光ったりくすんだりする印字の透き通った黒、片手の手のひらの中できらきら泳ぐブルーの栞紐に、本の上で暮れてゆく夕陽。私はもっぱら紙の本ばかりを読むが、それはこういった読書の光景が好きだからなのだろうと思う。ふいに聞こえた「あぁ〜もう、なんでぇ〜?」というおかしな声のほうへ視線をやると、母親に抱き上げられた男児のズボンが深く染まっている。噴水にダイブしたらしい。
私はカフェで仕事ができないタイプだ。電車くらい雑多な空間であればいっそ内に引きこもってしまえるが、カフェみたいにひとが腰を落ち着けて会話しているようなところだと気が散って、ただでさえない集中力がよりいっそう削がれる。仕事中に音楽をかけているひとなんかもいるらしいが、私には到底まねできない。そんなふうだから公園で読書をするという発想に至らなかったわけだし、やっぱりいろんなことに気を取られた。「ひっきにくっ、ひっきにくっ」と足並み揃えて歩く親子や、「とりさん!ざぶんしてぇ!」と鳩に噴水へ落ちるよう指示するつたない声、自転車がせかすように時を刻む軽やかな音、鳩と鳩ではない鳥のはばたきと落下する影、陽を照り返しスペースシャトルのようにきらめきながら通過する電車、見るたびに細長く姿を変えていく地面の上の黒い自分。暮れども暮れども沈まない、永遠みたいな夕方の風景。
最後は我慢くらべのようになりながら、ついに立ち上がってしまった。このまま帰るのも惜しく、あてどなく歩いてみる。そういえば古本屋がこの辺に、と行ってみたら休みで、つい先日たんまり本を買い込んだばかりだったので内心ほっとする。それなら初めから本屋など目指さなければいいのに。わかれ道に差し掛かるたび普段は進まないほうへ進む、ということをして、普段は行かないほうのコンビニに入ってみる。それにしてもこうして歩いているだけで、本を読まずともさまざまな言葉が目に入る。たとえば「まるでゆでたまごグミ」。わあ、ぜったいに食べたくない。
公園で読んでいたのは小林秀雄の『読書について』という本だった。小林秀雄の読書、のみならず文章に関するエッセイを集めた本で、なんていうか、やさしいお父さんみたいな本だった。思えば、小林秀雄の文章をきちんと読んだのは初めてで、これまではだれかが小林秀雄について語っているものしか読んだことがなかった。みんな彼をすごいひとだと褒め称え崇拝しているし、なかでも「小林秀雄は文学の神様になってしまった」と坂口安吾がほとんど嘆くようにして、下界に取り残された者の寂しさらしきものを吐露していた随筆の印象が強く、大層おえらいおひとなのだという印象を抱いていたが、読んでみて、ある意味でどこまでも庶民的なひとなのだと思った。どこまでも際限なく、ある種狂気的なまでに純粋に、読書を楽しむつもりでいるひとなのだと。
本の中で「最初から評論を書こうと思っていたのではなく、言いたいことを書いたら評論という形を取った」と繰り返し語られており、へんなひと、と訝しみながらもどこか共感する。私は読書の感想を話すのが得意じゃない。なんだか、話せば話すほど実際読んだものから遠ざかって行くような気がするし、曖昧なまま身近なところで浮遊していた情念のようなものが的外れな実体を得て遠のいて行ってしまうのがさみしい。わかってしまうこと、というより、わかった気になってしまうことが私はさみしい。そういうことかと思った瞬間、それは私から剥がされてしまう。まだ言葉にならない生ぬるい温度のままでそばにいてほしい、と思っていても否応なくそういう瞬間は訪れるし、そしてそういう瞬間を私は追わずにはいられない。まったくもって矛盾している。
「シーザーを理解するためにシーザーである必要はない」という有名な文句があるそうだ。シーザーっていうのがだれなのかよくしらないが、押井守の『イノセンス』で出てきたセリフで、もとはマックス・ウェーバーという社会学者の言葉なのらしい。たとえば演技論でも、チェーホフが「『自分はハムレットに似ている』と言うような役者にはハムレットを演じられない」と手厳しく書いていたのを読んだことがある。たしかに、物事の渦中にいるときはそれが一体どういう状況なのかわからないし、当事者よりも常に第三者のほうが的確に物事を把握できるものだ。対象と同一化するなど元来無理な話で、「私はあなたであなたは私」なんていうのは、自分自身を投影してその気になっているだけの幻想だろう。「シーザーである必要はない」とかカッコつけて言っているが、実際はただなれないだけだ。どんなに影を追っても、研究しても分析しても、毎日毎日考えて暮らして何度も何度も語り合っても、そのひとには一生なれない。でもそれならばある意味で、わからないままでいることだけが、いちばんそばにいられる秘訣なのかもしれない。ずっとわからないままでいること、あるいは、ずっとわかりたいと思い続けること。それはわかった気になることよりけっこうむずかしい上に、なかなか孤独な作業でもある。
ともあれなんにせよ、わからないことが私は楽しい。だから私は物理学が好きだし、人付き合いが苦手なのにきらいになれない。読書もそうだ。本を読み、あたらしい知識に触れれば触れるほど賢くなれると思っていたが、その逆でわからないことばかりが増えていく。どんどんばかになっていく気がする。でもきっと、あらゆることをわからないままでいたいがゆえに、私は本を、だれかとの繋がりをこんなにも求めてやまない。
2024.5.17
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