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『私からの眺め』からの眺め
涼しげに咲いていた紫陽花も暑さのあまり色褪せて、あっという間に夏がきた。
日本の夏は蒸し暑くてかなわない、と海外の人はよく言うけれど、私はこの水分をたくさんふくんだ空気が好きだ。
冬のあいだはするどい風のかたちをしていた空気が、むわりとやわらかい姿に変わり、あらゆる植物のにおいを漂わせてみっちりと街を満たしていて、どこまでも続く海の、ぬるい波をおしのけて歩くようで心地いい。
とくに夜の散歩はとびきり気持ちがいいし、明け方もうっとりするほどきれい。
白っぽい冬の夜明けと比べて、夏の夜明けは透きとおった青色が少しずつ部屋に満ちていくようで、その光景見たさについつい夜ふかしをしてしまう。
そんなわけですっかり夏、5月にやったflotsam booksでの展示から、はやくもふた月近く経ってしまった。
せっかくだから展示について書こうと思いながら、あれよあれよと時が過ぎ、今さら手をつけている今日このごろ。
まずは、ご来場いただいたみなさま、誠にありがとうございました。
たくさんの人が足を運んでくれて、ZINEも完売して、すごくうれしかったです。
展示では、スマホに書き溜めている文章のスクショを写真プリントし、実家の風景写真と、ノートの走り書きを撮ったものと一緒に飾りました。
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私がおもしろかったのは、写真についてはあれこれ聞かれたけれど、文章についてはほとんどなにも聞かれず、でもそれなのに好きだと言ってもらえたり、なんだか胸が痛くなると言ってもらえたこと。
実在するものをとらえた写真より、心の内を書いた抽象的な文章の方が的確に伝わっているそのようすが、まさしく私が展示を通して見てみたかったものだったので、うまくいってうれしかった。
ときおりTwitterにも流している、詩のような散文のような、私自身もなんと呼べばいいのかわからないあの形式の文章を書きはじめたのは、中学1年生のとき。
そのころ流行っていたアメブロをはじめてみたはいいものの、ひとに言えないことでなければ書く意味がない気がして、だれにも教えずひとり黙々とブログを書いていた。
学校の行き帰りの電車のなかで、スライド式の黄色いガラケーをポチポチと、ときにはつり革に掴まりながら片手で一生懸命に書く、書かなければ死ぬ、くらいの切実さで、だれにも届かない言葉を打つ。
そんなことを続けていたのは、学校に行く気の重さをまぎらわすため、日々うつろいゆく感情を残すため、集団のなかでぼやけた自分の輪郭をいま一度なぞるため、いろいろあるがとにかく自分自身のために、どうしてもそれが必要だったから。
そのうち書くのが昼から夜に、電車の中からふとんの中になって、ケータイもガラケーからiPhoneに乗り換え、書くのもアメブロでなくpagesへ、思えばより個人的な領域へと移ろい変わっていった。
眠れない夜に暗闇で、だれにも言えない思いを指先から煌々と光る画面の中へ、逃がしていって閉じ込める。
今私の胸を焼き切ろうとするこの葛藤は、朝になったら消えてなくなって、そのうち遠い過去になる。
かわいいとか、かなしいとか、かわいそうとかであっさり済まされて、ありきたりな気の迷いとして消滅していく。
それがどうしてもゆるせないから、私の心を的確にあらわす私の言語で、今この瞬間を残したかった。
明日になったら、時が経って大人になったら、はじめからなかったみたいに消えていく感情に、忘れ去られていく日常に、なんの意味も宿っていないのだとしたら、一瞬一瞬の積み重ねである私だって、この世のどこにもない一過性の事象にすぎなくなってしまう。
それはひとつの真理なのかもしれないけれど、それでも私は、私が私であることに意味があると思いたい。
書くということは私にとって、ただ一瞬のかなしみや、ただ一瞬のよろこびを、世界のすべてとして受け止めることだった。
ふとんの中で文字を打つ。
それはまぎれもなく自分のため、私にしか知りようのない私を残すためだったけれど、でも同時に、だれもがこういう夜を過ごしているはずだから、きっとだれかに伝わると信じる心もどこかにあった。
思えば私たちひとりひとりが別々の体のなかで、けっしてその存在を証明できない、得体のしれない心を飼っているというのに、それでも通じ合えるはずだと信じるなんて、それはほとんど祈りだろう。
そう考えるとある意味で、私が信じていたものは、神のようなものだったのかもしれない。
展示のタイトルにした『私からの眺め』は、トマス・ネーゲルの著書『どこでもないところからの眺め』をもじったものである。
『どこでもないところからの眺め』は、完全に客観的な神の視点からものを見ることは可能なのか、つまりだれが見ていても見ていなくても、世界がたしかにそこにあると証明することはできるのか、という思考実験の本。
対して私の展示はというと、実家の風景やノートの走り書き、夜な夜なひとりで取り組む書き途中のスマホの画面といった、ごく個人的な光景を切り取っている。
一見相反するテーマに思えるけれど、より個人的な視点を通してつながり合うひとの心に焦点を当て、私たちが同じ現実、同じ世界に存在していることを示す、というのが私のやりたかったことなのでした。
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といっても正直、私の中でもここまで言語化できていなくて、今書いてみてはじめて「そうだったんだ」と思っていたりもする。
言葉が先か心が先か、というのも私の中の永遠のテーマではあるのだけれど、そこまで踏み込むと終わりが見えなくなるので、今日はここまで。
あらためて、展示に関わってくれたすべての方に、心から感謝いたします。
2023.7.10
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