なき虫
これまで流した涙をかき集めたら、一体どれほどの量になるだろう、とよく考える。
たぶん、今寝転んでるシングルベッドくらいは、余裕で満たされるのではないか。
もしかしたら、この部屋の天井にまで届くかもしれない。
私はとても泣き虫なのだ。
良くも悪くも心が揺れる瞬間には、いちばん早い体の反応として涙が出てきてしまう。
映画や読み物に泣かされることはしょっちゅうだし、たとえ何を見なくたって、悲観に暮れては泣きはらした夜がいくつもある。
しかし、思いつくかぎりの悲しい場面を想像して、沈むところまで沈んでいくと、今度はかえって、それが起きていないことが奇跡のように思えてくるのだ。
そうして私は今、数えきれないほどの不幸を免れてここに存在している、と実感して、安堵のあまりまたもや涙腺が緩む。
そんな夜を繰り返しているからか、猫が悠々と部屋を横切っていったり、隣を歩く人の耳が透けて赤くなっているのを目撃するときでさえ、その光景がなぜか懐かしくて、涙が滲んでしまうこともある。
ただ当たり前の光景が、当たり前にそこにあるというだけで、悪い夢を夢だと知ったときのように心が救われるのだ。
なにか、前世でとんでもなくひどい目にあったのだろうか。
というのは冗談だけれど、しかし私は泣き虫なだけでなく、感動したがりでもあるのだろう。
犬が死ぬ映画で得るような感動を、猫が歩く姿で得られるのだから(はたしてそれはお得なのか?)、ネガティブで考えすぎる性格も案外悪くないのかもしれない。
何にしろ、喜びも悲しみも怒りも拒絶も信頼も奇跡も絶望も、最後はすべて涙になって私の体から流れ出ていく。
あらゆる感情は水に回帰する、とでも言えば、私のうざったい性質を誤魔化せるだろうか。
こんな恥ずかしい話をしたわけは、先日漢方薬局に行った際、不調の原因は「体内に水が溜まってること」だと診断されて、あまりにも私らしい原因だと思ったからである。
腹診の最中、たしかにお腹の中から、まるで池を飼っているのかと思うほど涼しげな水の音が聞こえてきたのだ。
これまで止めどなく流れる涙に顔を濡らされながら、よくこんなに水が出てくるなと不思議だったのだけれど、その瞬間ついに尽きせぬ水源が姿を現したかのように思えた。
処方された粉は甘いシナモンの香りがして、飲むたびにまるで魔法のお薬みたいだと思いながら、ひょっとして泣き虫も治ったりしないかな、と淡い期待を抱いている。
しかし、さっきから泣き虫泣き虫と書くたびに、頭の中を蝉が飛んでいくのだが、あの耳をつんざくような鳴き声は一体いつから聞こえなくなったのだろう。
ちっとも夏を過ごした気がしないのに、もう終わって行くなんて、と去年の夏に思いを馳せれば、性懲りもなく、その輝かしさに目の奥がじんと熱くなってくるのだった。
2020.9.5 LINE BLOG
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