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想い憶いの思い出

8月が過ぎていく今日この頃、私はすっかり疲弊して寝転がってばかりいます。

というのも先日、ラストサマー(学生最後の夏)を楽しみたいという友人に連れられて、ドライブで伊豆まで行ってきたのです。

伊豆で目にしたのはどこまでも続く澄んだブルー、白浜を蹴りあげる笑い声…なんてものではなく、主にイグアナ蛇ワニ亀トカゲ、あとは終わりの見えないうねった山道そればかり。

イグアナや蛇やトカゲは、伊豆の山道に放たれているわけではなく、私たちの目的地であったiZooという爬虫類館で見たものです。

もとはといえば伊豆には、リゾートバイトをしている幼なじみに会いに行く予定でした。

しかし、友人との打ち合わせ中に私がiZooの話をしたら、予想以上に盛り上がって、幼なじみではなく爬虫類に会いに行く方向で話がまとまったのです、なぜか。

そんなこんなで車に乗り込み、山道のしかるべきところで天城越えを流し、ヘビやワニにはしゃぎ倒し、白浜と幼なじみも一応目にして、海鮮丼を食べたあとは夜の海に足をひたして、帰りはパーキングエリアの湯船に浸かり、めまぐるしく都会に戻ってきました。

こうやって羅列してみるとなかなか満喫したものの、とにかく長時間の車移動がたいへんで、いまだに腰が変な感じです。

普段ハイパーインドアな私ですから、もう一生分遊んだような気になって、しばらくだれとも会わんでいいという心で8月を終えようとしています。

けれどもしかし、非日常から戻ったあとの日常とは、なんて楽しいものでしょう。

まぶしかった光景を思い浮かべながら髪を洗ったり、足をさらおうとする波の力を思い出しながら眠りについたりしていると、部屋中が肌触りのよい光るもので満たされていきます。

もはやこの感覚を味わうために、私はどこかへ出掛けていくのではないか、とさえ思えるほどの心地よさ。

そうしてふと、もしかしてこの感覚を共有し合うのが"帰り道"なのかもしれない、と思い当たりました。

「あれおいしかったね」「あのとき最高だった」などと、ともに過ごした時をふりかえりながら別れに向かって歩く、あの間延びした時間を、私はその「最高だった瞬間」よりも楽しんでいる気がします。

考えてみるとそもそも人は、ある目的それ自体よりもはじめから、あとで思い出すことを目当てに動いているのかもしれません。

思い返すのは数年前の正月、あるタレントさんの武道館公演を観に行ったときのことです。

そのタレントさんは母の知り合いで、招待していただいたからとぞろぞろ家族で出向いたのですが、どこを見ても人人人の武道館の入り口で聞いた母の呟きは、今でも耳に残っています。

「あー早く『楽しかったね〜』って言って帰りたい」

電車の乗り継ぎや人混みにくたびれて、正月だからとはしゃいで着てきた着物もこのときすでに脱ぎたくなっていた私の本音が、母の口から飛び出たときの衝撃たるや。

それからというもの、よそへ出向くときはいつもこのセリフが頭をよぎります。

先日の伊豆へ向かう道のりなんか、何度よぎったことかわかりません。

しかし重要なのは、「楽しかったね〜」と言って帰るためには、みんなでひとつの時間を共有する必要があるということです。

そうして、その時間をより忘れがたいものにするために、人は慣れない草履で武道館に行くし、片道4時間半かけてでも伊豆へ向かうのです。


ところで、私のスマホのボイスメモには、「風呂ラジオ」というタイトルの録音がいくつかあります。

これは過去の私から未来の私へ贈る10分ラジオで、つまり私がただ風呂場で近況をくっちゃべっているだけの、言ってしまえば口頭日記です。

月に1、2回くらい録っていて、たいていはあとから聞いてもしょうもないことばかりなのですが、7月3日収録の風呂ラジオ(略してふろラジ)第3回ではこんな発言がありました。

「私なんのために生きてるかって、思い出のためなんだと思います。おもしろい思い出がそこにあるから、それがまたできるかもしれないから、生きているんだろうなって」

なんて後ろ向きな、と思われそうですが、これが私なりの前の向き方なのです。

思い出とは、今ここにあるものではなく、いつでも振り返ったところに見えるものです。

それをどう見るかは今の私に託されたことであり、つまり「思い出のために生きる」とは、「なんだってあとからおもしろがってやる」という不屈の精神で過ごすことであると、今日の私は解釈します。

高校3年生のとき、学校をやめたくなっていた私に「せっかくここまで通ったんだから、卒業した方がいいよ。今やめたら、逃げたって記憶がずっと残ると思うよ」と言ってくれた人がいました。

そのころの私は目の前のことでいっぱいいっぱいで、今後のことなんて考えられずにいたのですが、そのとんでもなく客観的なひとことで「今楽しいかどうかがすべてじゃない」と気付かされ、今を割り切れるようになったのです。

実は、先日の伊豆ドライブには、高校のクラスメイトも同乗していました。

当時はあまり交流のなかった彼と、「あのクラス地獄だったね」という話でたいへん盛り上がったのですが、毎日きちんと学校に来ていた彼が、まさか私と同じ心であったとは意外でした。

感心しつつもそのことを尋ねてみると、彼は「絶対に休んでやるものか」と思いながら日々通っていたそうなのです。

私がいやだいやだと向かっていた教室に、そんな強固な意思で座っていた彼がいたのだと知れば、息の詰まる光景すらなんだか笑えてしまいます。

あの日、高速道路では何度も雨に降られたのに、伊豆はけろりと晴れていて、高台から見える海は青くきらきらと透き通っていました。

くたくたになった一日でしたが、振り返ってみれば、雨と雨のあいだではじける線香花火のような、ひと夏の思い出です。

2021.8.31 LINE BLOG

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