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差別と分別

高校生のとき、クラスメイトの男子と兄弟の話になり、私の姉に興味を持つ彼に「顔は全然似てないよ、父親が違うから」と言うと、彼はあからさまに気まずそうな顔をした。

驚いた私は弁明のつもりで「いやいやいや、兄も違うから!両親とも一緒なの私と弟だけだから!」と言ったのだが、場の空気はさらに凍りつき、彼は困ったように「もうやめて。悲しくなる」と言った。

このとき私が感じたのは、家庭の多様性に理解を示さない彼への怒りというよりも、目の前にいて、お互いに向き合って話をしているのに、彼にはまるで私のことが見えていない、という途方もない虚しさだった。


私はこの出来事をよく思い返す。

あの瞬間、彼と私はマジョリティとマイノリティで、普通と異端で、幸福と不幸で、強者と弱者で、男と女で、差別者と被差別者だったと言えよう。

けれども同時に思うのは、私が話をしていた相手は果たして、マジョリティや普通や幸福や強者や男や差別者だったのか、ということである。

これは考えれば考えるほど、そうは言い切れないように思えてくる。

なぜなら、悲しみという言葉が締め付けるような胸の痛みを代弁してはくれないように、言葉とは仮初のものであり、真実とイコールにはなり得ない性質を持っているからだ。

しかしその一方で、私たちは胸の痛みを誰かにわかってほしいとき、言葉を使うしか方法がない。

このようなジレンマの中で、私たちはどうやって相手のことを真に理解できるだろう。

むしろ、そんなことは不可能だと思った方が、よっぽど建設的なのではないだろうか。


私の家の猫は白く、その猫が上に乗って安らいでいる私の枕は薄茶色、シーツはすみれ色で、ふとんは群青色をしている。

部屋の中を見渡せばあらゆる色が目に止まるが、これは光の刺激を受けた私の脳が着色したものであり、猫も枕もシーツもふとんも本当の色など知りようがない。

このこととまったく同じように、私の目に映る彼彼女は、彼彼女から受け取った情報をもとに作り上げた脳内における幻なのだと私は考える。

すべてが私の想像力に委ねられているということなので、彼彼女はもれなく私の偏見や願望に晒されるだろう。

その上で私がやるべきは、想像力を養うための知識や教養を身につけ、そうして自分自身の偏見や願望に注意深くあることだ。

それは、自分の中に他人の居場所をつくることである。

クラスメイトの彼はそれを怠っていたから、私は彼との会話で孤独な思いをしたのではないか。

彼がマジョリティで普通で幸福で強者で男で差別者だったからではなく、ただ私という個人を受け入れるつもりが、彼にはなかっただけなのだ。

と、自分で結論付けておきながら、あまりにも悲しい真実にショックを受けている。

もはや、彼のことを最低最悪の差別野郎と思っていた方がよかったかもしれない。


さて、私がこんなことを書くのは、先月末にアメリカで起きた残忍な事件を受けて、多くの人が人種差別反対の声を上げているのを目にしたことが大きい。

被害者の彼のことを思うと心が痛み、彼らの苦しみをこの身をもって知ることはできなくても、黒い肌を持っているだけで殺されると考えればぞっとする。

しかしその恐怖は、黒い肌を持つということそれ自体よりも、警官による犯罪が許容されているというところに向けるべきなのではないだろうか、と思う。

この事件を人種差別という枠組みに押し込むことが、かえって問題解決への道筋を阻んでいるような気もするのだ。

ただし、この事件を含む今日の至るところで、未だ黒人差別が根強く残っていることはたしかである。

不条理な暴力とそれを許容する社会に抗議するために、そして目の前にいる彼彼女を不用意な言葉で傷つけないためには、より多くのことを知って、現代を生きる私たち全員に絡みついている過去のしがらみを解きほぐす必要がある。

別々の皮膚で覆われた私たちには痛みを分かつ術はなく、この頭の中でしか色を見ることができないのと同じように、この思考の中でしか、目の前の物事を捉えることはできないのだから。

2020.6.4 LINE BLOG

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