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宿命の不在

 あけましておめでとうございます。

 と言うのもはばかられるくらい、年明けからめでたくないニュースが続いている。まずは被災された皆さまにお見舞い申し上げるとともに、一刻もはやく被災地に日常が戻りますように、心よりお祈りいたします。

 私は年始も東京にいて、身近に被害に遭ったひともいなかったけれど、それでも続報を見るたびに胸が痛んだ。こんなふうにあっけなく、私自身も、私のまわりの大切なものもいつか奪われるのかもしれない、と思うとこわくなって、すこし塞ぎ込んでしまうほどだった。

 私は生き残ったのだ、と思う。いま私がこうして元気にしていられるわけは、ただそのときその場所にいなかったから、というそれだけなのだから、裏を返せばそのときその場所にいたら私はここにいなかったかもしれない。そんなふうに考え始めると、たしかにこの手で握っていると思っていた人生の舵が急に溶けてなくなってしまったようで、ひとり暗闇のなかをただ流されてゆく思いがする。いつ岩にぶつかるかもわからない。なにをするのもしないのもこわい。

 そうして生きてゆくことの恐ろしさを痛感するともに、さっさとこの日々を終わらせてしまいたいと考えていた中高生の頃を思い出していた。あの頃の私だったら、ニュースのなかに希望すら見出したかもしれない。なにかがふいに苦しみごとぜんぶ、有無を言わさず私のすべてを奪い去ってくれるのを、いつもどこかで期待していたから。あの頃はけじめのつけられない自分を恥じていたけれど、しかしあれから年月が経ったある日、ふいに、自分は死ねなかったのではなく生きることを選んでいた、とわかったときがあった。それは、料理家の土井善晴先生が「たとえば寝ていたとして、お腹が空いて何か食べようと起き上がったなら、つまりは生きようと思ったわけです」と仰っていたという話を、どこかで読んだときだった。眠るとき、お風呂に入るとき、乾いた喉をうるおすとき、お腹が空いてごはんを食べるとき、意識すらしない何気ない日々の時々に、私は生きることを選んでいた。死を選ばないという消極的な方法ではなく、たしかに生きようとしていたのだ。

 とはいえ、もちろん私はひとりで生きていけるわけではない。いろんなものに支えられながら、ほとんど奇跡と言っていい幸運に恵まれて、生きている。そもそも生まれたことすら自分で望んだわけでなく、私の知らないところで気づいたら人生が始まっていた。そして、あらがいようもなくいつか終わる。それならやっぱり、私は束の間なにかの手によって生かされているだけなのだろうか。私たちに決められるのはせいぜい夕食の献立くらいであって、大事なことは初めから決められているのだから、暗闇のなかでおとなしく手を合わせているほかないというのか。

 福田恆存という劇作家兼翻訳家が残した言葉に、「私たちが欲しているのは、自己の自由ではない、自己の宿命である」というものがある。この一文のみだとすこし誤解を招く。原文を読むと、彼は単に自由批判をしているのではなく、ひとは宿命から解放されたら自由になれると思い込んでいるが、ほんとうは、宿命をまっとうしていると思えたときに自由を感じるのだ、と説いている。たしかにそうだ。暇はあるがなにもすることがないという空白の期間ほど不自由に思えるときはないし、反対に、私はまさしくこれのために生まれてきたと思える瞬間ほど、全能感に満たされて心の底から自由でいられるときもない。もはやその瞬間を求めるあまり、私たちはわけのわからないものにお金を使ったり、騙されたり、ひとに尽くしすぎて自分を見失うことをやめない。自分が求められ、ほとんど神様のようなだれかによって生きる理由を与えられているという状況は、向かう先もわからないまま暗闇を流されていくこの手を握ってあたためてくれるから。たとえそれが束の間のぬくもりであったとしても、ないよりはずっとましだから。 

 でもほんとうに、宿命は私たちを自由にするだろうか。よりいっそう縛られるだけなのではないか、といまこのときだから思う。残された者はそれだけで、この上なく重たい宿命を背負う。失われたひとたちの分まで生きるという、あまりにも正しくて、だからこそ逃げてしまいたくなるような宿命を。それは選んだわけでも望んだわけでもない、問答無用で与えられた苦しみだ。それに生かされていると思うのは、それだけでつらいことではないか。ペットショップで働く友人があるとき、「犬はほんとうにかわいいけれど、こいつらのせいで仕事を辞められないと思うと憎くなるときがある」と話していたことがあった。仕事がつらかったのかもしれないが、それにしても身勝手な話だ。犬にはまったく憎まれる筋合いはない。

 自分以外のなにかに救いを求めることは、救ってくれないまわりを憎むことでもある。生きることには少なからず苦しみがともなうので、だれかのために生きてしまうと、そのひとのせいで苦しむ羽目になる。そこまで思う相手はきっと大切なひとだから、よりつらいだろう。私はそれなら自分で生きると腹に決め、その選択にともなう苦労も責任も、耐え難い別れや後悔も、そして至上の幸福もよろこびもぜんぶ、この手でつかんで引き受ける。見えない先をじっと見つめ、わずかな変化を嗅ぎ取っては一か八かで舵を切り、不安なときほどそっと静かにそこにいて、同じ闇のなかを進むだれかの息づかいに耳をすます。言うほど簡単なことではないが、でもそれはきっと、まじめに働くことであったり、まじめにごはんを食べることであったりする。たとえすでに決められた道を歩んでいるのだとしても、自分で選んでここに来て、これから向かう先も決められる、と強く信じる。他人に救いを求めずに、もはや救われたいとも願わずに、宿命の不在を生きていく。それは己の力を過信することでも、ましてや孤独に耐えることでもない。ただ胸を張って生きることである。

 私は明日も働いて、ごはんを食べる。生きることを自分で選ぶ。初めはハッタリだったとしても、あらゆる行動のそのあとで「私はこれを選んだのだ」といちいち思う。そしてその選択が、私ひとりでは成し得なかったことに気づいて、まわりのひとや環境に感謝する。ひとに助けられ、ひとを助けながらも、ひとに人生を委ねることはけっしてしない。明日も私はそうやって生きる。

2024.1.18

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