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箱の中身はなんだろな

私が高校生のとき、よくこもっていた秘密の小部屋がある。

校内唯一の完全個室、しかもエアコン完備で、私が使っていたいちばん奥の部屋は他よりもゆとりがあり、足もゆったりと伸ばすことができる。

冬には座席があたたかくなり、つるつるとした床はいつもきれいに磨かれていて、小窓を開ければ渡り廊下と、その向こうにゆれる緑が見えた。

そこで私は昼食を取ったり、本を読んだり、初夏の風に吹かれてうとうとしたり、顔の見えないガールズトークを楽しみながら、ひとり優雅な昼休みを過ごしていたのだ。

持ち込んだ豆乳紅茶を飲みすぎちゃっても大丈夫、なぜならそこはトイレだから。

私は母校愛のぼの字も持たない人間だけれど、高台にあるがゆえの澄んだ景色と、つるぴかでいつもきれいなトイレだけは気に入っていた。

トイレにこもっていたとはいえ、別にいじめられていたわけでも、一緒にごはんを食べる友達がいなかったわけでもない。

はじめは授業をサボるとき、先生の目から隠れるために小部屋を利用していたのだけれど、案外居心地がよくって、そのうちに居座るようになってしまったのだった。

私が学校嫌いだった理由はいろいろあるものの、何よりもまず人混みが大の苦手なのである。

私が通っていた学校は、中高が隣同士に建っていて、食堂図書室体育館プール保健室、とにかくあらゆる施設を共有していた。

中学は4クラス、高校は6クラスあるから、全部でざっと1200人、教師を含めればもっといる。

そんな学校の昼休みを想像して欲しい。
敷地内の端から端まで沸き立って、もはや休息の暇などありはしない。

休日の繁華街を1時間でもうろつけば人に酔い、心身ともにボロボロになる私にとって、それは毎日与えられる試練、ではなくただの苦痛であった。

それでも、そんな落ち着きのない学校の中でも、トイレにだけは凪の時間が流れていたのだ。

ついでにうんちやおしっこも流れていたが、そんなもの、私の切実さを前にすれば屁でもない。

おほん。

ともあれ、私はトイレの花子を楽しんでいた。

そこにいるとき、私は人があふれんばかりの校内でたったひとりだったけれど、教室にいるよりよっぽど孤独ではなかった。

それはきっと、教室ではないとされているものが、トイレにはあったからだと思う。

何かといえば、それは自分自身である。

姿は見えずとも、はしゃいだ女子たちが個室に入るやいなやぷつりと広がる沈黙や、荒っぽくドアを閉めたと思えば地の底から吐かれるため息、隣からえんえん伝ってくるすすり泣く声に、私は彼女たちの存在を感じていた。

その直前まで集団における役割を一生懸命演じていても、ドアが閉まればひとりきり、さっきまでの笑い声はうそみたいに遠のいて、世界にすっかり置いていかれる。

そうして用を足したり、生理ナプキンを取りかえたりと、誰とも共有できない肉体の世話に取りかかって、自分というものが、肌や肉や腸や胃や子宮や温度であることを思い出す。

誰もが純然たる肉体としてそこにあり、嘘どころか本当さえも必要なく、お互いを受け入れることも、突き放すこともしなくてよかった。

そういう関係、と呼ぶにはあまりに一方的すぎるけれど、そうやってただ同じように個々であるという事実が、私の孤独を癒してくれたのだ。

それなのに、教室に戻ればいろんな思惑が絡み合って、途端にややこしくなるから難しい。

いつまでもトイレの中みたいな関係でいられたらいいのに、と人にはまるで伝わらない思いを抱え、今日もひとりな私である。

2021.4.30 LINE BLOG

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