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空白を過ごす

裏起毛のスウェットをかぶって、氷のように冷えた足先をさすりながら、規則正しく落ちる雨粒を数えたり、色濃く染められた木の幹や、輪郭がはっきりとした草の一本一本を見ている。

まだ16時前なのに、庭に立つセンサーライトはすでに点っていて、濡れたウッドデッキに反射した光が導くように揺れている。

近頃めっきり寒くなった。

着る機会を伺っていた夏服の数々が結局着られることのないまま仕舞われ、そもそも誰かと会うことや、外出すらほとんどしなかったのだと気づく。

一日一日がのろく重たいものに思えたけれど、振り返ってみれば特別な思い出は何もなく、ぽっかりとした空白だけを抱えたまま、あっという間に10月が訪れてしまった。

来年になったら今年のこと、どんなふうに思い出すのだろう、というか思い出せるのだろうか。

至るところにTOKYO 2020の文字が並び、新しいホテルがあちこちで高くそびえ立ち、外国人観光客を目当てにしたであろう企画展や、浮世絵デザインのペットボトルが自販機に並べられているのに、オリンピックだけが存在しない幻みたいなこの街を。

なんてことを考えたりして、早くもすっかり年の瀬気分になっている私である。

けれども、瞬くように過ぎ去ったこの半年を思うと、残された2ヶ月半だってあっという間に過ぎていってしまうような気がするのだ。


コロナ禍において断捨離が流行ったらしいが、私はつい先日スマホの空き容量を増やすため、暇つぶし用に入れていたゲームアプリと無料漫画アプリを全て消去した。

買うほどじゃない漫画を読んだり、永遠に自分のものにはならない豪邸のリフォームを手伝うよりも、目の前の愛猫・トンのかわいい姿を写真に収めることの方が重要だと判断したのだ。

それからというもの、ふとした瞬間、たとえば読み途中の本を閉じたときや、うんうん唸りながら仕上げた原稿を送ったあとに、まざまざと暇を感じるようになった。

ぽかんと空いた時間の中で、手持ち無沙汰な私はスマホを開いては閉じ、あたりのものを手に取っては置き、冷蔵庫を開けては閉め、トンを撫でては逃げられと、とにかく落ち着きがない。

そんな自分を目の当たりにして初めて、私は自分がただ何もしない時間を過ごすことすらできなくなっている、ということに気付いたのだった。

以前はむしろ、こんな時間を楽しんでいた気がする、退屈こそが唯一の友達と言ってもいいくらい、外の景色と脳みその働きだけでいつまでも遊んでいられたのに、と己の怠け具合に落ち込み、ここのところは何にも頼らず暇を過ごすよう心がけている。

そういうわけで、降り注ぐ雨の粒を数えたり、センサーライトの光を見て物思いに耽ったりしているのである。

しかし、こう無意味に立ち尽くす瞬間に思うのは、これこそが人間の本来の姿なのではないかということだ。

この世に存在しないものに思いを馳せ、馬鹿げたアイデアを実現してみせたり、そもそもこんなにも複雑な社会を形成できたのも、人間がすごく頭が良いとか、優れた生物だからとかではなく、ただ退屈だったからなのではと思えてならない。


実はコロナ騒ぎが始まってからというもの、この時間を無駄にしてたまるかと怒涛の読書に励み、タコの体の仕組みにまで詳しくなったが、その代わり思うように文章が書けなくなっていた。

それもそのはず、退屈な時間がなければ、こんな風に中身も結論もない考えを巡らしたりできないのだから。

それに、私はとても影響(洗脳)されやすいため、何か見たり読んだりしたら、それを自分なりに噛み砕くための時間が必要なのだった。

いつも、噛み砕いてる間に世の中に置いて行かれるのではないかと焦るのだけれど、焦って上手くいくわけでないのなら、時間がかかっても自分のものにできる方がずっといい。

というわけで、暇な時間をゆるしてみれば久々に、ただ楽しいという気持ちだけをもって文章をしたためることができてうれしい。

それにしても、ここのところやけにトンが可愛いのは、閉ざされていた感受性が解き放たれたからなのだろうか。

たとえ似たような写真と言われても、同じ瞬間などないのだからと、部屋の一部を白く満たす猫の寝姿で、今日もせっせとカメラロールを埋めている。

2020.10.9 LINE BLOG

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