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ぬくもりをこわして

 坂の上から工事現場を見下ろして、こわれている、と思った。瓦礫のなかに埋もれるように、じっと黙ったショベルカーが虚空を見つめる。工事現場を覆う、ブルーやグレーの淡いメッシュが好きだ。こちらにものが落ちてこないよう守っているのはわかっているけれど、私にはそれが、怪我をしたときに傷を覆うガーゼや包帯みたいに、傷ついたものを包んで癒しているように見える。剥き出しになった鉄骨や、瓦礫になった壁を内包してはたはたとゆれるそれはずいぶんとやわらかそうで、だが実際ふれると硬くがさがさしており、わかっていてもかすかにおどろく。遠目では絹のようだったのに。

 工事現場は、子どものときはきらいだった。乱暴な音がしてうるさいし、男のひとの怒鳴り声もこわかった。でも、大工さんたちがほんとうはこわいひとたちではないことも、なぜか知っていた。実家を建てているときなんかに親切にしてもらったことがあったのかもしれない。あったような気もする。思い出せない。ともかく大工さんがこわくなるのは働いているときだけで、それはむしろ優しいことのような、そんな気が幼いながらにしていた。

 最近の私は工事現場が好きだ。子どものときはこわすのは悪いことだと思っていたが、こわさないよりよっぽどこわしたほうがいいものもあると、大人になってから知った。それでも、お気に入りの建築が取り壊されると聞けばかなしいし、こわさないで済むならそっちのほうがいいのに、と思うことは多い。こわさないで済むなら、捨てないで済むなら、そっちのほうがいいのに。そんなふうに思いながら、先日も実家の一角を片付けていた。

 我が家には"捨てられない山々"と名付けたいようなカオスがいくつもあって、先日片していたところは"捨てられないぬいぐるみ山"だった。「ぬいぐるみ 捨て方」で調べるとぬいぐるみ回収のNPO団体のホームページがたくさんヒットして「ぬいぐるみにセカンドライフを」なんてキャッチフレーズが目に飛び込んできたが、残念ながらうちにはセカンドライフを送れそうなものはなかった。シミだらけの埃まみれ、腹を押すとしゃべるぬいぐるみの中の機械の電池はことごとく泡を吹いていて、かわいいスティッチのおなかにはゴキブリの死骸が張り付いている。すべてのぬいぐるみが「いっそ殺せ」と言わんばかりの面持ちでそこにあり、私はなるべく無感情に、瀕死のかれらをゴミ袋へ放った。しゃべるぬいぐるみの腹をまさぐって機械を外し、ぬいぐるみの皮をかぶっているだけのロボットはそのまま不燃ゴミへ。途中、キャハハハとくぐもった笑い声をあげたぬいぐるみがいて、魂は抜けているのに電池だけが生きているその姿が、黙りこくったものよりいっそう痛々しかった。

 山のなかにはサイパンダもいた。子どもの頃サイパンに行ったときに買ってもらった、その名の通りパンダにサイのツノが生えてるキャラクターの、ビーズクッション。とんでもなく気に入っていて、これがないと眠れなかった。眠る前にはかならずサイパンダの薄っぺらい笑みにキスをした。一度だけ、リュックにつめて小学校の合宿に連れて行ったこともある。晴れた日は手洗いをしてウッドデッキに干してやった。サイパンダの汗はいつも黒く、何回すすいでも水が透き通らなかったが、思えばあれは汚れでなく染料だったのかもしれない。そのうち生地が薄くなりどこからともなくビーズがこぼれるようになって、別れのときがきていたのに、捨てることができなかった。ごめんね、ありがとうと抱きしめてから袋に入れる。さすがに悲しくなったがしかし、作業しているうちにもうひとつサイパンダがあらわれた。どうやらこっちが私のらしい。サイパンダ違いをしてしまった、とひとり照れ笑いをした。

 もしもサイパンダがこわれていたら。いっそ布が破けてざあっとビーズが流れ出たりしたら、私はきっと別れを惜しまなかっただろう。それは来たるべき別れであり、寿命の全う、もしくは災厄の身代わりになったとか言ってすんなり喪失を受け入れられていたはずだ。けれど、そんなふうにわかりやすい終わりのほうが、たぶんめずらしい。物事はあんまりすっきり終わらない。変わりなく続いているふうに見えながら、内側はとっくに腐敗しきっているような、そうして、異臭を放つ中身はついぞ晒されることのないままあらたなものの下に埋もれていくような、そんなことのほうが多い。

 だから私は工事現場が好きなのかもしれない。それは明瞭な終わりであり、それゆえみずみずしいはじまりの気配をふくんでいる。少なくとも、愛のかわりに埃にまみれたぬいぐるみの山よりは、よっぽど見ていて気持ちがいい。おっちゃんたちの怒号も今や、はじまりを迎える音頭に聞こえる。あらたにできたものを見て、がっかりしたりもするけれど、それでもこんな大きなものを建ててしまえるということにはいつだって感動する。「消費なくして建築はない」と、古本市で手に取った建築家の本の見出しにあった。作ってこわして、また作る。よろこんで消費する俗っぽい自分にはときおり嫌気がさすものの、「人間、今のままで十分と思ったら心が死ぬ」と、いつか友人が言っていたのを思い出す。こわすことは悪いことじゃない。こわすことや、捨てることが、大切にすることであったりもする。それでもこわすことは、互いに傷つけられる相手と向き合うことは、どうしてもこわい。見ないふりをし続けることのほうが、ほんとうはおそろしいとわかっていても。

 淡いメッシュがはたはたとゆれる。やっぱり遠目には絹に見える。腐りきったぬくもりをこわして、ひとり孤独に立ち尽くすだれかを包んであげられるような、強くやわらかな優しさを、私も持って、いられたら、と、容赦なく吹きつける木枯らしに、さえぎられながらも思った。

2023.11.27

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