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春を迎えに

 みるみると春になっている。いつもだったら立春とか言いながらまだぜんぜん冬なんだけど、などと文句を言ってる頃なのに、今年は順調に春めいてきていて拍子抜けする。そうでなくとも暖冬だったから、思えば冬らしい日はほとんどなく、ずうっと春がくすぶっていたみたいな感じだ。たしかに雪はふったけれど、それも「最後に一発冬っぽくしておきますか」みたいなふりかたで、翌日はもうあたたかかった。しかし、冬のほうもこのままでは終われないと思ったのか、あたたかいわりに雪はあんがい長く道路のわきに解け残っていた。

 雪のふった日、私はまだ風邪が治りかけで、愛猫の白猫トンちゃんを外に出して保護色だとか言って遊びたかったが、体調が悪化しそうだったのでやめた。残念だったけれど、トンとしては幸いだったかもしれない。2日くらいあと、もうほとんど透明になっている雪をトンに触らせてみたが、冷たいし濡れるし得体もしれないしで過剰におびえていた。そういえば2年くらい前、雪の降り積もるなかを散歩したときも、あわてふためいて雪から逃げ惑っていた。そのときはトンのほうが散歩に乗り気だったのだけれど、あのときいやなものだと覚えたのだろうか。トンの鼻先にふれた雪はすぐに水滴になって、ゆびから流れて消えてしまった。

 雪がすっかり解け切ったいまも、風邪のほうは微妙に尾を引いていて、たんがからまってむせるがしかし、風邪の真っ最中もいまも、食欲だけは異常なほどある。四六時中たべもののことばかり考えている。朝にたべて、昼にたべて、おやつをたべて、夜にたべて、デザートをたべる。ふとんのなかで明日はなにをたべようかと思いながら眠りにつき、寝坊すればああ今日は朝ごはんがたべられなかったと落ち込む。出来合いを買ってくることはほとんどなく、甘いものもふくめて毎回すべてつくってたべる。つくってたべて、たべおわると次はなにをたべようかと考える。さっきも夜にたべようと、黒胡麻豆乳プリンを仕込んだところである。

 そうして、ダイエットもしている。つくってたべてをしているうちに、私がからだをつくっているのだという自覚がむくむくと起き上がって、食欲がだんだんとからだをつくりたい欲に形を変えていった。だからなりふりかまわずたべているのではなく、考えてつくってたべて、たべたぶん消費している。もともと太りにくい体質だったが、歳のせいなのかくってもくっても太らないということもなくなって、くったらくっただけのからだが生まれるようになった。それでも自分の規格を大幅にはみだすほど太ることはないけれど、ひとりで篭りきりになっている時間が長いと、やはりどことなくたるんでいく。ゆるんだ意識が輪郭に出る。だからヨガマットの上で汗だくになって、肉と意識を一緒に引き締めている。考えてみれば、初めはたべるためにつくっていたのが、いまはつくるためにたべている。

 からだが引き締まり、個体としての輪郭がはっきりしていくにつれて、心なしか孤独までもが色濃く浮き上がってきているようだ。私が私であることにだれも責任を持ってはくれない、ということがわかったからかもしれない。私は永久にこうして私をつくっていく、ひとの手を借りることはあっても、最高責任者はつねに私である。たまにそれがひどくわずらわしく、だれかが代わりにつくってくれたらいいのにと思ったりもするけれど、ほんとうにだれかに代わってもらって、それでもしも気に食わないものができあがったら、私はそいつを末代まで呪う。呪いの聖地、貴船神社で一心不乱に釘を打つ。なので、不当に呪われるひとを増やさぬためにも、私は自分で私をつくらねばならない。つくってたべて消費して、動いて疲れて眠りにつく。それしかすることがないみたいに、何度も飽きずにあたらしく生まれる。

 大人になってから初めて行った葬式で、棺桶に眠るそのひとを見たとき、自分のからだとおんなじサイズの箱のなかでじっとしていられるなんて、と私はおどろいたのだった。それは生きている人間にはとてもできない所業だった。すべてがまったく静止しているその姿はあまりにも異質であり、おそれをいだいてそして同時に、生きているものはけっして止まることができないのだと知った。どんなに筋肉を固めて、だるまさんがころんだでゆびをさされなくても、からだのなかでは血液が巡りぎゅるりと胃腸が収縮している。死とは止まること、なにもかもを受け入れて、永遠に古いまま、過去に閉じ込められること。それなら、運動のすべては反発だから、生きることはそれだけで抗うことなのだと思った。

 「星は上昇しているのよ」と、話があっちからこっちへ飛ぶ年寄りがいつか、やっぱりなんの脈絡もなく言った。「星が描くのは円じゃない、うずまきなのよ。円は循環、循環はエネルギーを生まない。だから星はぐるぐるまわってこう上に、上に昇っていっているのよ」といって彼女はしわだらけのゆびをくるくるまわして、気まずくかたまった空気を混ぜた。混ぜたところで空気はやわらがなかったが、それはなんとなく神秘的な動きではあった。星々は上昇する。言われてみれば、そんな気がした。

 私がたべて眠ってまたたべて、そうして繰り返してゆく日々は、循環ではない。上から覗けばエッシャーの無限階段みたいに無為に見えても、視点を変えればそれは上に、どこまでも上に伸びていくらせん階段なのだと思う。はじめはきつかった筋トレも、いまでは息を切らさなくなった。料理の手際もよくなって、たべすぎて苦しくなることもなくなり、いまは必要なぶんだけ上手にたべられる。どんなに些細なことであっても、上達すれば心がよろこぶ。星々は上昇する。もっとよくなりたい、と願うのはきっと、生命として健康なことだ。

 時は流れてゆくものだ、と私はこれまで疑うこともしなかった。ものすごい速度で過ぎてゆく時の流れのなかで、私はただ立ち尽くすことしかできない、と知らぬ間に当然のように受け入れていたが、もしかしたら、動いているのは私たちのほうなのではないかとこのごろ思う。私たちは時の流れに無力に打ちひしがれているのではなく、むしろ止まった時のなかを、とてつもないスピードでひたすら前に進んでいるのかもしれない。つまりは、私たちは光を受ける影ではなくて、私たちのほうが影のなかを照らす光なのだ。まるで、宇宙の闇のなかで瞬く星のように。これはほがらかな陽気に浮かされて見た夢だろうか。はじまりの予感にまんまと酔わされ夢とうつつのあいだをゆれながら、そうして私は何度目かの、真新しい春を迎えに行く。

2024.2.18

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