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ゆっくりでいいよ

 「家のそばの十字路の片側がぜんぶ土になってしまった」という文を、そっくりそのまま友人に送った。もちろん写真付きで、写ったものの説明文として。でもどちらかといえば、写真のほうが文の説明であると私は思っていた。家のそばの十字路の片側がぜんぶ土になってしまった。歩くとき、左手を見ていればなにひとつ変わらぬ風景がそこにあるのに、右手に視線を動かせば懐かしさもあたらしさも一切が取り払われ、見渡すばかりの土だけがある。夜になるとその空白に闇が立ち込めて、道すらなくなったようになる。

 歩いて行ける近所のTSUTAYAにDVDを借りに行こうと思ったら、TSUTAYAがまるごとなくなっていた。正確には1階の書店がもぬけの殻で、レンタル兼文房具屋の2階にはクソでかい古着屋が初めからそこにあったみたいな顔で営業していた。私はぽかんとして、まるではなから服を見るつもりだったみたいに古着を見てまわった。ほんとうは、クロエセヴィニーが出てる映画を借りに来たのだったが、そんなものはそこにはなかった。なにも買わずに店を出た。

 TSUTAYAがなくなっていたのがあんまりショックで、あんまりショックだったからこそじわりじわりとかなしみが心に染みてきて、そんな自分を慰めようとロイヤルホストでパフェでも食べようかと思ったが、胃を壊しているのを思い出してやめた。仕方なく、遠回りをしつつ帰路に着く。途中で母校の小学校の前を通って、あまりの懐かしさに反吐が出そうになった。そしてかつての通学路の住宅街を歩いていると、ここも片側はあの頃のままなのに、反対側はまるっきりぜんぶ家が建て替わっていた。この道を歩くときのくせであたらしくなったほうの道を歩いていたが、風景の変わりっぷりにふいにおどろき「どこやねんここは」と思わず口から出た。幸いまわりに人はいなかった。

 やっぱり土になっている十字路を曲がって、家の手前の紫陽花スポットをしばし眺める。この時期になると(といっても今年は例年より早いが)いつもきれいな紫陽花が咲いている場所。紫陽花は毒があるのでけっして食べないように、という最近のニュースが頭をかすめながら、そういえばどんな匂いなのだろうと顔を近づけてみる。なんの匂いもしない。間近で見た紫陽花はひとつの建築物のようで、私がもしもミツバチだったら紫陽花のなかに住みたいな、とメルヘンな妄想をする。そういえば虫が集っているのを見かけない気がするけれど、紫陽花の毒はミツバチにとっても毒なのだろうか。

 鍵を開けていると後ろから「がんまちゃん、おかえり!」という快活な声が聞こえ、自転車で過ぎてゆくお隣さんに「ただいまー!」と手を振った。そして薄暗い玄関のドアの内側で、昨日の話を思い出す。トラちゃんが死んだという話。トラちゃんはこのへんをうろつく地域猫だったが、でもほとんどお隣さんちの猫だった。よく中に入れてくれと、トラちゃんが隣のベランダで鳴く声が聞こえていた。腎臓が悪くなり家で点滴を打っていると聞いたのは、つい先日のことだった。元気な頃はうちの庭でしょっちゅう日向ぼっこをしていて、トンをわが家に迎えたときは窓辺まで挨拶(偵察?)に来てくれた。思えば、トンが外に出たがったのはトラちゃんがいたからかもしれない。実際、さんぽのときにトラちゃんを見かけるとトンは猛ダッシュで駆けて行き、手の届かないところにいるトラちゃんを興奮した様子でずーっと見ていた。トラちゃんのほうは平和主義で、見られてもシャーとも言わず、追いかけられれば見事な身のこなしで逃げつつも、しかしどこかへ去っていくわけでもなく、ぶんぶんとしっぽを振るトンを微笑ましく思ってくれているふしがあった。私は勝手にトラちゃんを「トンのライバル」と呼んでいた。

 トラちゃんは雄の猫らしいが、ノラの仔猫をひろって子育てをしていたことがあったという。雄の猫というのはふつう子育てに参加しないどころか、よその仔猫は食っちまうこともあるらしいのにほんとうだろうか、と聞きながら私は疑ったけれど、でもなんだか、トラちゃんならありそうな気もした。トラちゃんの年齢を私は知るよしもなかったが、野性味あふれるキジトラ柄とサクラ耳、そして片目が開ききらないガラの悪そうな表情もあいまって、なんとも貫禄のある猫だった。トラちゃんが育てたのは黒い仔猫という話だったので、近所で黒猫を見かけると「きみがトラちゃんに世話になった子か?」と聞く。もちろん猫は答えないし、今やだれにもわからない。

 トラちゃんの死を、トンが知ることはないのかもしれない、と私は思った。けれどそれを伝えずにはいられないとも思い、昨夜トンに「トラちゃん死んじゃったって」と話した。「さみしいね。もう、会えないね」。トンのライバルなのに、言いながら、私のほうが泣いてしまう。トンはなにかをわかったような、やっぱりなんにもわかってないような顔で、しろくまあるく私を見ていた。

 食事を終えてまんぞく気に舌なめずりをしながら、その白猫がのっしのっしと歩いてくる。そして私はおどろく、というより、おののく。その歩き方があんまり年老いて見えたから。トンがこっちへ歩いてくるほんの数秒のうちに、数年が経ってしまったみたいに思った。よくよく目を凝らしてみれば、老いというほどのものはなく、いつものどんくさい動きなだけだったのだが、仔猫のときのぴょんこぴょんこした歩き方をそこに重ねてしまったものだから、老いたふうに見えたのだった。トンはまもなく6歳になる。6月6日に6歳である。まだまだ若い、と思うけれど、でもトラちゃんが仔猫のトンを窓辺に見に来たあのときから、もう6年近く経ったのだ。思えばトンがうちに来るまで、私にとっていちばん身近な猫はトラちゃんであった。触ったことすらなかったが、でもまちがいなく、トラちゃんは私の猫でもあった。点滴を打っていると聞いたとき、お別れの前に一度撫でたいと思ったけれど、余計なストレスを与えたくないから行かなかった。お隣さんはすこし前にわんちゃんも亡くしていて、その子とトラちゃんは仲がよかったみたいだから、今ごろ会えてきっとよろこんでいるはずだ。

 お隣さんはわんちゃんが亡くなってすぐあたらしい、同じ犬種の仔犬を迎えた。亡くなった子も2代目だったから、次も飼うんだろうなと思いつつ、それでも3代目が来たときにはすこしばかりおどろいた。もうお隣さんもお婆ちゃんと言える歳だからだ。とはいえ娘さんは若く、さんぽも娘さんがしているのを見かけるので、世話をするひとがいなくなるということはないだろう。そして、自分より短命なものを大切にして、見送ってゆくことはさみしいことだけれど、しかし自らの死への恐怖を少なからず和らげてくれるものでもあるのだろう、と考えたりした。そうはいってもお隣さんもまだまだ若く、いつでもオールバックにパッキリした口紅をつけて、よく通る声で「おかえり」と言ってくれる。

 これを書きながらまたぐずぐずと、鼻をかんでいる私を、雪見だいふくのようなトンが見ている。トンちゃあんと駆け寄ると、もちもちくんはもっちり身をひるがえして、洗面所の奥へ消えていく。私は諦めず、風呂場まで追い詰めていって、もっちりボディを掴み上げるとギャと抵抗の声を上げながらも、それは袋に入ったミルクのようにおとなしく腕の中におさまった。最近トンを撫でるとき、「もうすぐ6歳だねぇ。はやいねぇ。もっとゆっくり歳をとっていいんだよ」と私は話しかけている。手のひらでちいさなおでこを覆うようにすると、細かな毛がみっちり生えたグレーの鼻をスピスピ鳴らして、トンはうれしそうに目を瞑る。風呂場のタイルのつめたさを足の裏で感じながら、ふわふわした白いぬくもりに頬ずりをした。トン、ゆっくりでいいんだよ。ゆっくりでいいよ。

2024.5.31

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