交わらなくなったものたち
あけましておめでとうございます。
と、会う人と挨拶を交わすことに、どうしても違和感がある。
なんていうか、「まだ明けてないけどね」という気がしてしまう。
なにが、というのは、みんながわかっていることだろう。
それでもたしかに年は明け、早くも1月が過ぎようとしている。
年末に誕生日を迎えて、私は21歳になった。
20歳とは10代に毛が生えたようなものに思えたが、21歳となると途端に20代という感じがする。
こないだまですぐそばにあった高校生の自分から、すっかり遠のいたような気分だ。
あの頃好きだったものに見切りをつけ、あの頃憎かったものを忘れ、あの頃なんでもなかったものを懐かしむようになった。
それが成長なのか老いなのか、ただ時が流れただけなのかわからないけれど、良くも悪くも変わらずにはいられないということが、少し嬉しく少し悲しい。
基本的に私は変化を好む性質だが、それでも喜ばしくない変化といえば、ただでさえ少ない友人が数を減らしていくばかりということだろうか。
友達がたくさん欲しいわけでもなければ、減らしたいと思っているわけでもないのだけれど、どちらかというと減らすことの方が得意らしい。(嬉しくない)
しかしおもしろいなと思うのは、仲の良い友人ほど私を変わらないと言い、縁を切った友人ほど私が変わったと口にすることだ。
前者は私の未だ変わらない部分を好きでいてくれて、後者は私の変わってしまった部分が好きだったということだろうか。
私の体感的には、後者は自分の都合のいいように私を解釈していただけのような気もする。
ちょうど去年の今頃に取り掛かっていた、Olive復刊号に寄稿したエッセイでは、向こうの結婚を機に縁を切った女友達の話を書いた。
これまで続いていた関係がある時点で壊れてしまうことは、ありふれた当たり前のことでありながら、理解し難い不可解なことであるとも思う。
その不可解さを、別れた友人たちは私の変化に結論付けたのかも知れない。
中学生の頃、あるバンドにハマって、友人と追っかけのようにライブに通っていた。
しかし、だんだんと新曲を好きになれなくなり、以前のような熱が冷めていくのを感じていながら、目を背けるように参加した新アルバムのツアーライブで、私たちは完全なるアウェー感を味わった。
あれほどまで楽しかった会場の一体感を、私たち以外のみんなが感じているのに、私たちだけがぽつんとふたりでそこに立っていた。
これまで好きだったものを同じように好きでいられないという罪悪感と、どうして好きでいさせてくれないんだという怒りを持て余す私に、
「でも、バンドも変化していて、私たちも変化していて、今まで交わっていた道が、ただ交わらなくなっただけなんだと思う」
と友人は言った。
そんな友人ともライブに通わなくなってから疎遠になってしまったが、些細でも取り返しのつかないすれ違いに打ちのめされたときは、よく彼女の言葉を思い出す。
道を分かち、交わらなくなった人たちがいる一方で、新たに交わる人たちもいる。
分かれた道は最後まで分かれたままかもしれないし、もしかしたら、また交わる日が来るのかもしれない。
そのときかつての友人たちは、私のことを「変わってない」と言うのだろうか。
2021.1.31 LINE BLOG
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