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『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』をラブストーリーとして観た感想

 先日『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』を観て、すごくよかったから会う人たちみんなに「ジョーカー2みた?!」とテンション高めで問いかけていたのだけれど、みんなして苦虫を噛んだような顔で首をすくめ「いや〜、だってあれ…(酷いんでしょ)」といった反応なので悲しくなってきてしまい、「私がおかしいのかな…」と疑心暗鬼に陥った。どのくらい陥ったかというと、確かめるためにもう一度観に行ったくらい。そしたらやっぱりよかったので、悲しみを通り越してもはや怒っている。ぷん。

 といっても私は初めもっとひどくて、酷評されていることはおろか、そもそもこの映画の存在すら知らなかった。前作はもちろんチェックしていたけれど、しかしすごいすごいと聞かされすぎてただすごさを確認するだけの鑑賞体験になってしまい、大まかな流れしか覚えていない。たしかに続編を作ってるとか言ってた気がするな、それってもうやってたんだ〜みたいなふわふわした状態で、ともかく友人に誘われるがままに観た。前作を見返すこともせず、初めてのIMAXで(ちなみに鑑賞後の第一声は「IMAXってすげー!」だった)。

 威張ることではないが、これほどまでにでたらめな、よく言えばフラットな状態でこの映画を観た人間はなかなかいないと思うし、せっかくなのでこの状態のまま私なりの感想を書いていきたい。批判を間に受けてスルーするのはあまりにもったいない作品だと思うから、というのは半分建前で、感想を語り合いたいのにだれもみてないから語れないというフラストレーションを、ここで発散させていただく。ちなみに、ネタバレはこれでもかというほど含まれます。

 私は今作がミュージカルになっていることも当然知らなかったし、ハーレイ役がレディー・ガガということさえ観てる途中で気がついて「え、このひとレディー・ガガ?まって、レディー・ガガって今いくつ?若すぎない?」とストーリーとは無関係のところで心が乱された。今調べたら38歳らしいが、20代にしか見えなかった。ガガは適役だったと思うし、歌声は言わずもがなすばらしい。でもこの映画をミュージカル映画と呼ぶのは、違和感がある。たしかにミュージカルシーンはどっさり盛り込まれている。けれど、ミュージカル映画として作ったのではないと思う。

 ではなぜミュージカルシーンをもってして描く必要があったのか。この映画はいろんな角度から解釈できる余地のある作品だが、大筋は冒頭のアニメーション『ジョーカーとその影』で描かれているように、影響力を持つ人間がいかに祭り上げられ、そしていかに影響を受けた者たち、すなわち“影“の方に踊らされ転落していくか、というストーリーだと捉えることができる。タイトルの「フォリ・ア・ドゥ」はフランス語で「ふたり狂い」のことらしく、妄想病患者と親密な関係を持つことで、健常者だったはずのひとにまで妄想が共有される状態を呼ぶそうだ。前作がもたらした社会的影響はもちろんのこと、日頃からSNS等で繰り広げられている祭り上げ及びこき下ろしまでをも包括して、現代の社会問題を描いた作品と評することもできるし、その方が簡単だと思いつつ、でも私はあくまでこの物語をラブストーリーとして読み解いてみたい。そして、そのあまりにも悲しすぎるラブストーリーの要素を担っているのが、まさしく例のミュージカルシーンなのだ。少なくとも、私はそうみていた。

 まずこのミュージカルシーンは、アーサーがリーと出会うことによって始まる。ふたりが初めて話すとき、リーはアーサーのことを羨望の眼差しで見つめ、自分は生まれも育ちもアーサーとそっくりで、マレー・フランクリンをTVで見るたびに「だれかこいつを撃ち殺してくれ」と思っていたから、自分の願いを叶えてくれたジョーカーに憧れていたと語った。ジョーカーを描いたドラマは20回も観たという。自分の病棟に戻ったアーサーは、娯楽室でタバコをふかしながら「人生で初めて僕を必要としてくれる人に会えた」と歌い踊る。TVでは検事が自分を死刑にすると宣言しているのに、そんなこと気にも止めず夢心地の空想に耽るこのシーンが、最初のミュージカルシーンである。リーとは音楽療法のプログラムで出会うので、なるほど彼女の存在が“歌”としてアーサーの世界に入ってきたわけだ。

 ここでは現実と空想の乖離がまだほとんどない。歌い踊るアーサーはアーサーのまま、みすぼらしい制服を身に纏い、舞台も病棟の娯楽室そのままで、観客は同じ病棟のむさ苦しい収容者たちだ。しかし娯楽室から急に場面が切り替わり、雨の屋外に繋がれて立たされるアーサーが今作において初めて“泣き笑い”を見せると、それがジョーカーの産声となって、ミュージカルシーンは回を追うごとに現実離れしたきらびやかなステージになっていく。アーサーはだんだんとジョーカーの装いを極めていき、リーの装いも派手になって、ふたりのショーステージになっていくのだが、最終的にジョーカーはリーにピストルで撃たれ、ステージの上にはリーだけが残る。それがすなわち『ジョーカーとその影』の物語だといえる。

 これをラブストーリーとして解釈するために、アーサーという人物について考えてみたい。私は、彼のことを“子ども”だと、しかもとびっきりのいい子だと思った。なぜなら、たとえばアーサーはリーと初めて話す場面で「5人殺した。1人は生放送で」と言うが、これは看守の言葉をそっくりそのままコピーしている上、そもそも「こんな素敵な人がどうしてここに?」というリーの問いかけからも微妙にズレた受け応えである。TVの取材で例の生放送のときのことを聞かれた際も「光が見えた」と話すけれど、これもアーサーを多重人格と決めつけていた精神科医の表現そのままだ。このことから彼はどこまでも空虚な人物で、自分を取り巻く大人の言うことをまるごと受け入れ求められた通りに振る舞おうとする、気の毒なほどのいい子なのだと思えた。

 そうして、そんなふうに弁護士や精神科医や看守など、自分を取り巻くあらゆる大人にとってのいい子でいようと努めていたアーサーが、たったひとりこのひとだけのいい子でいたいと思うひとに出会った。それがアーサーにとっての恋だった。世間から注目されるスターに憧れる気持ちがなかったわけではないにしろ、しかしなによりもリーがジョーカーである自分を望むから、アーサーはジョーカーでいたかったのだ。リーに出会ったことで、不安定で多面的だった彼の人格は、理想と現実とにきっぱりと別れていく。大衆とスターという大きな括りでの光と影に加えて、アーサーの中でも自己の人格が光と影に引き裂かれていくのである。

 私はミュージカル映画はあまり馴染みがないものの、ミュージカル演劇はいくつか観たことがあり、とくに恋愛もののそれが好きだ。歌い出すとかえって白けるというひともいると聞くが、私はいつも「歌の力ってすごい」と感動する。ふたりが運命の出会いを果たすとき、それを他者に伝える方法は歌しかないのではないかとすら思う。好きという思いは言葉にすればするほど偽物めいていくし、そもそも運命的な出会いというのは当人同士にしかわからないからこそ運命的なわけで、恋心を他者(観客)に伝えるのは本来不可能といえる。しかし「初めてこんなひとに出会えた」「あなたが私を見つけてくれた」などと恍惚の表情で歌われると、「そうなんだな」と不思議と納得させられてしまう。そういう力が歌にはあって、だから私は、アーサーの中にリーとのあたらしい世界が芽吹くという表現がミュージカル調で描かれていることに、とてつもなく納得した。それが拙く無理やりにはめ込まれていればいるほど、感情的な表現としての完成度を上げていると思った。

 アーサーがリーに対して「ほんとうの自分を見てくれるのでは」と淡い期待を抱いていたのに対し、リーの方はというと、最初からジョーカーのことしか見ていない。初めての会話のときも「今の私をみんなに見せてやりたい」と言っていたし、ドラマティックな脱走“劇”の最中も「あいつらに見せてやりたい 驚くしかないでしょ 大当たりでしょ」「この世界で一番有名なのは彼」と歌った。その後懲罰室に入れられたアーサーの元に現れると、すぐに愛し合おうとするアーサーの手を止めてメイク道具を取り出し、「本当のあなたが見たい」と言ってピエロのメイクを施した。アーサーが取材のカメラに向けてリーへの愛を歌ったときも、リーは歌を遮って電気屋のショーウィンドウをぶち壊し、虚ろな瞳でなにも映らなくなった小型テレビを持ち去った。嘘がバレてアーサーに問い詰められたときには「あなたに気に入られたくて」とうそぶき、「(自分を追って精神病棟に入るくらいなら)なんで手紙を書かなかったの?」と聞かれると、「だって私は何者でもない」と答えた。ドラマも実は5回しか見ていなかった。リーが欲しかったのは初めから、ジョーカーの恋人という立場だった。つまり、リーは恋をしていたわけではなく、夢を見ていただけだった。

 クライマックスのシーンで、ジョーカーである自分を脱ぎ捨てたアーサーがリーの元へ駆けつけたときも、ハーレイ・クインの姿に変貌したリーは「夢しかなかったのに、あなたは諦めた」と言ってアーサーを拒む。そして「ピエロはズボンを下ろされて 悪役は完璧な悪役 それがエンターテインメント」と歌い、アーサーは「もう歌いたくない」と拒む。ここにも夢と恋の対比が見える。夢を叶えるとはつまり、その状態である自分を達成することだ。小説家なら小説家、アイドルならアイドルと先立つ役割がそこにはあって、自らをその役割に当てはめにいく。

 でも恋は、自らの意思とは関係なく落ちて相手に振り回されるものであり、だからときになりふり構わずステージの上で歌い踊ってしまえるが、ときに目も当てられないほど惨めな姿にもなってしまう。恋をしている人間は、哀れなピエロにもなりきれないし、完璧な悪役にもなりきれない。どちらが良い悪いというのではなく、この作品は夢の盲目と恋の盲目の、そのすれ違いを描いているように思った。そして恋はいつだって夢に敗北する。混同されがちなそのふたつは、しかし受動と能動にはっきりと別れているから。自分に夢を見るひとに恋をしてしまった人間の末路は、理想の自分に首を絞められるような、自己統一性の崩壊なのである。

 このすれ違いについて考えるなかで、私はマズローの欲求階層説を思い出した。ひとの欲求は五段階にわけられており、一段下の欲求が満たされると次の欲求を満たそうとする、という説だ。

https://theories.co.jp/terms-maslows-five-step-desire/

 ここに当てはめると、アーサーとリーの欲求がまるで別の階層にあることがわかる。裕福な家に生まれ、大学にも通っているリーの欲求は四段目の“承認欲求”であり、そしてアーサーへの失望というプロセスを経て“自己実現欲求”へと上っていった。一方で日頃から殴られ、不眠の問題も抱えるアーサーの欲求は一段目の“生理的欲求”と二段目の“安全の欲求”のあいだをゆれていたものの、リーに出会ったことでかろうじて四段目に上り詰めたが、それも下の階級が満たされないままリーにつられて駆け上がった形だけの立場だったから、いくらひとから尊敬されようと彼の渇望が癒されるはずもなかった。それにしても、アーサーがトップの“自己超越”的な人物として祭り上げられていたことを思うと、彼が求めていたものと彼に求められていたもののギャップが、一体どれほどのものだったかよくわかる。期待をかけるあまり相手を潰してしまうという事態はこのように、前提とする欲求段階の不一致で引き起こされるのかもしれない。

 そして夢を見ることと恋をすることは、どの階層にも存在する状態だろう。しかしその違いを考えるなら、夢とは次の階層に行きたいと願うことで、恋とは今ここにいる自分を認めてもらいたい、と願うことだろうか。通りで仕事と恋愛の両立が難しいわけだ……などと考えたりもしたが、さすがにとりとめがなくなるのでここまでにする。私の解釈はかなり偏ったものだけれど、使用楽曲と照らし合わせてきちんと解説しているレビューも見つけたから、ぜひ読んでみてほしい。

 ともかく私が伝えたいのは、ずばり「つべこべ言わず観に行って!」。そして「映画って自由に観ていいんだ!」と、私のひとりよがりな解釈にふれて思ってもらえたらうれしい。ついでに同じくホアキン主演の『ボーはおそれている』もぜんぜんみてるひといないから、みて。『ナミビアの砂漠』はみんなみてるからよいとして、あとは小説だけれど宇佐美りんさんの作品群も私はここに並べて考えている。そんな話もいつかしたいな。あー、まだまだ話し足りない。世間的には大失敗の作品だとしても、こんなふうにたくさんのことを考えさせてくれたから、私にとっては文句なし、大成功の映画体験だった。

2024.11.15

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