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わがままとマニキュア

幼い頃、母のアシスタントとしてうちで働いていたゲイの男性に、マニキュアを塗ってもらった。

幼い頃と言っても7、8歳くらいのときで、ゲイの男性とは元アイドルの櫻田宗久くんである。

しかもむねくんが塗ってあげるねと言ったのではなく、ちょうどオシャレに目覚め始めた私が、自分では上手く塗れないからと押し付けたのだ。

彼がマニキュアを纏っているところなど一度も見たことがないのに、ゲイなんだから当然うまいはずだと私は思い込んでいて(ひどい偏見だ)、「ぼく下手だからできないよ」というむねくんの言葉も真に受けず、いいからやってと促した。

そしたら本当に、鳥がくちばしでつまんで塗ったのかというほどヘタクソで、これなら自分でやった方がマシだと思った。
自分がやらせたのに、ひどい。

そうして私はマニキュアを練習し始めたのだけど、もともと納得いくまでやらないと気がすまないタチだから、中学生の頃とか、ネイルアートにこだわるあまり徹夜までしていた。

あのときは学校でいろんな人に褒められて、みんなが私の新作を待っているという気になり、マニキュアが乾かないからまだ寝れないとか、ちょっと気が狂っていたと思う。

けれどもそこまで私が熱狂したのは、人に褒められるからというだけではなく、マニキュアを塗る行為そのものに魅了されていたからである。


7、8歳から修行を始めて、中学生にもなると、ずいぶん上手に塗れるようになっていて、だからこそ些細な失敗が気にさわった。

トップコートを塗ればごまかせるくらいの色ムラとか、重たくなりすぎた厚みとか、10センチの近さで見なければ気づかない埃の混入とか。

そういうものを理由に何度でもやり直して、納得できる仕上がりまで持っていく、苦労してひとつをやり遂げる快感にやみつきになっていたのだ。

じっと静かにして小さな爪に焦点を当てていると、だんだん世界が縮まっていき、筆に圧をかける指の力や、微妙な色の違いをとらえる視界の中だけがすべてとなった、言葉のないところに行くことができて、その場所が私はとても好きだった。

数学の問題を解くときの頭の知らないところが働くあの感じ、餃子の皮を包むときの手元に神経が集まるあの感じ、作文を書くときのまばたきを忘れるあの感じ、それらすべてが「集中」というひとつの単語で表せることは、あとになってから知ったのだけれど。


マニキュアを塗るのは今も変わらず大好きなのだが、塗っては落としを頻繁に繰り返しているからか、このごろ爪周りの乾燥が気になる。

かといって頻繁に餃子を包むのも後処理に困るし、と悩む私はふと目に入った、少し前に買った小学校6年間の算数ドリルを「これだ!」と開いて、それからというもの毎日せっせと算数の問題を解いている。

私は小中高の12年間もれなく不登校児だったから、学校の勉強がすっぽりぬけているところがあって、もう一度学び直そうかと思い買ったものだったのだけど、集中欲の発散に使えるとは思わぬ副産物であった。


しかし、そもそもマニキュアというオシャレが好きなので、色を塗り替える頻度はさほど変わっていないような気がする。

メイクにはそれほど熱心でない私がマニキュアをこんなにも好きなわけは、きっとそれが自分の目を対象にしたオシャレであるからだろう。

鏡と向かい合わなければ見ることのできない顔と違って、手元はいつでも目に入る。

むしろ他人はそれほど気にかけないし、女性は褒めてくれることも多いけれど、男性には塗っていることすら気づかれないか、見つかったとしても、何が良いのかまるでわからないと眉間にしわを寄せられる。

けれどもそれこそが、マニキュアの魅力であることを彼らは知らない。

爪に色を纏うそれだけで、誰も知らない、誰にも見られていないところでも、指先に物語を宿せるということ。

朝昼晩、春夏秋冬の色彩が、その美しさが、私を楽しませるためだけに用意されているという、この世でいちばん贅沢なひとり遊びであること。

それが自分だけのものであればあるほど、マニキュアはもっと甘美にきらめくのである。


だから、男性でもコスメを楽しむ人が増えるのは大変けっこうだけれど、そういう私たちのひそかな楽しみがバレてしまうのは、少し残念に思っている。

私の弟なんか爪の色を変えるたびに褒めてくれて、よくできた弟だと思いながらも、なんだかちょっとつまらない。


あなたと私がわかり合うこと、それがどんなに清く正しいことだとしても、やっぱり私は誰にもわかられない私だけのものがほしいのだ。

幼い頃から親しみ深い「わがまま」という言葉は、たぶん私のそういった性質を指し示しているのだろう。

人にマニキュアを塗ってもらって、自分で塗る方がマシだと思った子どもの頃から、私はちっとも変わっていないようである。


そして朝昼晩、春夏秋冬を彩る花々を綴ったウェブ花椿での連載『Flower and Diary.』が、先週に最終回を迎えました。

約一年、言葉が無力に思えるほど美しい鈴木親さんの花の写真から、毎週文章をひねり出して100字程度で収めるという、修行のような初連載を走り切った今、ぽかんとした週末を過ごしています。

7日間隔で待ち受ける締め切りに泣き出したくなる時もありましたが、振り返ってみればステイホームのコロナ禍で"今ここに、変わらずあるもの"と向き合う時間をもらえたことに、私自身とても助けられていました。

担当編集の塚田さん、鈴木親さん、読んでくれたみなさま、本当にありがとうございました。

桜も見頃という今日この頃、浮かれすぎて風邪を引かぬよう気をつけつつ、うららかな春の一瞬を、ともに楽しんで行きましょう。

Flower and Diary.#46『桜の瞬き』

2021.3.28 LINE BLOG

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