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過ぎゆく果実

ある朝起きたら唐突に秋、このあいだまでの猛暑がうそみたいに涼しい風が吹いている。

この夏はノースリーブにハマっていたのに、途端に着られなくなってしまった。

でもあたらしく買ったセーターを着られる季節が目前に、と思えばうきうき浮き足立つ、簡単な心を飼っている。


読書の秋、と言われる所以をちっともしらないのだけれど、でもたしかに、この頃いつにも増して本をめくる手がよく進む。

私は本を読むのがすごく遅くて、まれに夢中になってごくごくと飲むように読みきってしまうこともあるけれど、たいていは何日も、何ヶ月も、あるいは何年もかかる。

というのも、本屋で出会ってこれはと思って買った本でも、苦いものを無理やり飲み込むようにしか読み進められず、やきもきすることがよくあるのだ。

しかし本には読むべきときがやってくる、と私はつねづね実感する。

やきもきの挙句あきらめて、本棚につっこんで忘れていた本を、ふいに思い出して手に取ったら甘くておいしいくだものみたいに、よろこんで心が食いつくそのときに。

そういうことはよくあって、そのたびに私は、過去の私が今の私に必要なものを、どうしてあらかじめ知っていたのだろう、とふわふわした心地になる。

この頃は、そうしたふわふわにくるまれて本を読んでいる。


夕暮れ時、さんぽをしていたら近くの高校が文化祭をやっていたらしく、ちょうど帰りの学生たちの波に飲み込まれた。

そういえば、最近は前より高校生が幼く見える、と気づいてそれから、私を自分たちの世界の外側にいる人間として認識する彼らの空気を肌で感じて、なんだか大人になった気がした。

ふと、私はこの学校の生徒だった可能性もあったのだよな、と思い当たって、わざわざ電車で川を越えて1時間もかけて登校しなくても、こっちなら徒歩数分ですんだのに、とちいさな後悔をいだく。

でももしも私がこっちの学校に通っていたら、私の大切な人たちには出会えなかったのだろうか。

そうだとしてもまたべつの大切な人たちに出会えたのかな、と考えてみるとキリがなくて、単なるひとつの選択が自分をまるごと変えてしまうと思ってみればくらくらした。

進んでるときは一本道なのに、振り返るとあらゆる道筋が無数に枝分かれしている、なぞなぞの答えは人生である。


同じようなことをこのあいだ、駅で高校の同級生にばったり会ったときにも思った。

朝の仕事を終えて、一度自宅の最寄り駅まで戻ったものの、やっぱりラーメンが、しかもぜったいに鶏白湯ラーメンが食べたいと引き返してきたその駅の構内で。

あまりにもびっくりして、妙にぎこちない挨拶を交わし、パチクリと目を合わせて、また妙にぎこちなく別れるまでの数分がえらく長く感じられた。

なぜ私たちは出会したのだろう?いったいどんな確率で?

早足で歩きながら私はぐるぐる考えていた。

私がラーメン欲に突き動かされなければ、あるいは自宅の最寄りに着く前に「ラーメン食べてかーえろっ」とスムーズに目的をはたしていたら、きっと会うことはなかったのに。

それを偶然と呼ぶのだけれど、でも偶然とはなんなのだろう。

目的のラーメン屋に着いて、白く濁ったスープを前にしても私の体はまだかたまっていて、私たちは5年ぶりの再会だったのだ、とはたと気づいてまたおどろいた。

「覚えてる?」という相手の言葉に頷いたけれど、実際は覚えていたというよりむしろ、その顔を見た瞬間に忘れていた記憶がいっきにぜんぶ蘇ったというのが正しい。

脳のなかですっかり埃をかぶっていた情報が引き出され、その情報と目の前の相手を照らし合わせているのがわかった。

変わっていない、と思ったけれど、私が見ているのはいま目の前の彼なのか、思い起こしたかつての彼なのか、見れば見るほどわからなくなった。

思い出すということはおどろきを伴うのだ、とすこし粉っぽい麺を飲み込みながら私は思う。

たしかに映画や漫画のなかでも「思い出した!」と人がおどろくシーンを観たことがある。

でもそれは、思い出したことそのものへのおどろきではなくて、今まで忘れていた自分へのおどろきだったのだ。

私はその同級生のことなどすっかり忘れていた。そうして、きっとまた忘れていく。


その日の夕方、私が同じように目をまるくしたのは、さっきとはまたべつの高校の同級生の姿を見つけたからだ。

近所に住んでいるのは知っていたから、今度はあまりおどろかなかったけれど、それでも1日に2度も高校の同級生に出会すということにはおどろきながら、私に気付きそうにないその横顔をまじまじと見た。

ちょっとケバくなったけれど、それ以外はたいして変わっていない。5年の変化などたかがしれているのだろうか。

見知った顔をとらえてハッとなる自分の心を、どこか遠くから眺めるような思いがしてだんだんと、私が彼女のことを知っているのと同じくらい、道行く人のほとんどを知らないでいることが不思議になった。

私は徒歩数分の学校に通っていたかもしれなかったし、そうなれば朝の清々しい、または夕暮れ時の艶やかな多摩川を電車の窓から眺めることもなかった。

このあいだの駅の構内でびっくりすることもなく、スマホを見ながら歩く彼女のメイクが濃くなったかどうかなんてわかるはずもなかった。

それでも私は毎日電車に揺られて、彼らと同じ教室にいた。

そんなふうに考えてみると、人生なんて偶然の積み重ねのような気がしてくるけれど、たしかに出会いは偶然でも、別れはそうじゃないと知っている。

別れだけが必然ならば、なにを選ばないかということだけが、私が人生のうちで決められる唯一のことなのかもしれないと思った。

こんなふうな物思いは、秋の夜長にぐんと深まる。

ああ、そうか。

秋はなるほど、過去が熟れる季節なのか。

2023.10.1

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