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花のきれい
この時期に降る雨を、催花雨(さいかう)と呼ぶらしい。
はやく花を咲かせろと急かす雨、ということらしく、その字面もうつくしければ"最高"に似た音の響きもすごくいい。
この言葉は「Flower and Diary.」という連載をやっていたときに知った。
思えばあれから私は花に詳しくなり、5月になったらつつじが咲くなぁ、などと思うようになった。
以前は、ひらくのを心待ちにする花なんて桜くらいで、つつじやら紫陽花やらの目立つ花々でさえ、気づけば咲いているというふうだったのに。
帰路にあるよその家の花壇が、季節を経るたびちがう花に植え替えられていることや、またべつの家の木に咲く花が、夏の終わりのへんな時期にあらわれることも、まえは気にとめたこともなかった。
いま、改札をくぐる前、横目にとらえた園芸博覧会の淡いピンクのポスターに「2027年開催」とあったのだけれど、私は時を越えたのだろうか。
と一瞬思ったが、おそらく園芸界のオリンピックのようなもので、その開催決定をお知らせするポスターだったのだろう。
でも、たとえばスポーツ選手なら、4年後のオリンピックに向けて練習に励むけれど、花々はもちろんそんなことはせず、ただ同じように散っては咲いてを繰り返し、そうして4年後の今ごろ多くのひとにお披露目されるわけである。
花々にとっては、今日であろうが4年後であろうが同じ春だとしても、ひとにとってはまるでちがって、今日は園芸博覧会はひらかれず、それは4年後の未来にしかない。
いずれ死ぬのになぜ生きるのかを考えたとき、ただ咲いて、そして枯れゆくものが生命なのだと、仏教なんかは説いたりする。
私たちはあらがいようのない循環のなかのひと粒に過ぎず、だから死ぬことはおろか、生きることにさえ意味はないのだよ、と言われてみれば清々しい。
石はなぜ石なのかとか、木はなぜ木なのかと問うてみても、たしかに意味はなさそうだ。
しかし、私たちは同じ日々を繰り返すわけではない。
春はただ咲くだけの春ではなく、うれしい春もあれば、かなしい春もある、ある年が来れば園芸博覧会がひらかれたりもする。
似たり寄ったりの出会いと別れを繰り返しても、それらに同じものはひとつとしてなく、おんなじようにしょっぱくたって涙の理由はそれぞれちがう。
あらたな言葉を知ったなら雨の音もちがって聞こえ、開花を待ち侘びる心も生まれる。
季節は変わらず巡っても、ひとは刻々と変化して日々あたらしくつくられていく。
私とはなにかと答えるなら、それはきっと、今日見た桜だろう。
水たまりをぴしゃりと踏んで揺れた白色の影、濡れたつま先のつめたい感触、信号の赤や緑を反射するまっくろい道、やわらかく湿ったぬるい風、ひとぬりで塗りつぶしたような曇り空。
今ここにいる、それこそが私だと思う。
その日そのときその場所で、そこにいた私にしか知る由もない、たくさんの日々が私をつくってきたのだから。
それにしても、晴れやかなお花見日和を待つことなく、早々に葉っぱをつけはじめた桜を見ると、やはり花のうつくしさとは、ひとの都合をまったく無視していながらも、それでもひとめできれいだと思わせるところにあると痛感する。
悲しいときも、しんどいときも、むしゃくしゃしているときであっても、私たちはふいに花の鮮やかさに目を奪われて「あぁ、きれい」と思ってしまう。
ひとの考えることや思うことというのは、毎回でたらめで、さっきまでくよくよ悩んでいたくせに、次の瞬間もうすっかり過ぎたことになっているなんてしょっちゅうだ。
同じ言葉や行為でもときによって捉え方はまるで異なり、することといえばほとんど余計なこと、そのうえそれらの意味や理由もよくわからず、押し寄せる一瞬のなかでわたわたと足掻くばかり。
だけれど、そんな自らの行いに理由を求め意味を見出し、とりとめのないものに一貫性を持たせようとする試みが、ひとの美学というものなのだとこのごろ思う。
一貫性ということでいえば、自然現象に勝るものはないわけで、だから花はいつ見てもきれい、花自体がそうしようとしてなくたって、初めからできているから無性に憧れる。
それでも、花の営みがまったく花それ自身の思惑によるものだとしても、それを見てきれいだと思う感情は、私たちの心に芽吹く。
だからせっかくの憂鬱が花のきれいに打ち砕かれ、憂鬱になることすら突き通せない自分の無力を嫌ったとしても、問答無用のうつくしさに打ちのめされることはまちがいなくひとの悦びだ。
桜のぶわりと舞う様に、つつじの鮮烈と紫陽花の静けさに、夏の光がチカチカ点る水面のゆらぎに、風になびく新緑の瞬きに、うつりゆく関係とその刹那の幸福に、私は何度だって打ちのめされたい。
終わっていくことを嘆くより、いつだってはじまりをよろこんで迎えたい。
そんな私にみなぎる決意のことも、春はつゆしらない。
2023.3.27
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