[4]「のらくろ」の罪
「のらくろ」は子どもたちのヒーローだった。
子どもたちだけでなく、大人たちものらくろの生みの親である田河水泡先生を尊敬していたらしい。
満洲の小学校の同窓会誌に、田河先生の講演によって満蒙青少年義勇軍に入ることを決めた、と書いた卒業生がいた。入隊から引き揚げまでの詳細を所属していた義勇軍の体験集に書いたという。幸運にもそれを入手できた。
その人は、終戦後の中国大陸をさまよい、中国人の世話になって職人として生き延び、引き揚げてきた。
満洲の都市部からの入隊者は珍しかったようだ。実際その人も、また同級生も、航空隊に憧れて満洲飛行機養成所に入ることを希望していた。しかしそれを覆したのが漫画家、田河先生の講演に感動した父親だった。父親が義勇軍入りを勧めたのだ。
義勇軍に入ることに賛成する親は少なかったようだ。
内地では、親たちの反対が激しくて子どもたちの勧誘がなかなか進まないと当時の新聞に出ている。
一般に義勇軍は小作の二男三男が貧しさゆえに入隊したと理解されているが、実際には当時街の軍需工場は人手不足で、いくらでも働き口はあった。だからわざわざ14、15歳の子どもを遠い極寒の満洲までやろうという親は多くはなかった。
義勇軍の満洲現地隊は、満洲都市部と開拓村の子どもたちが対象だ。だから内地とは少し意識は違っていたかもしれない。
しかしそれにしても、軍国少年を育成するうえで田河先生の影響は大きかった。
田河先生は、満蒙青少年義勇軍のパンフレット制作に携わっている。満洲の小学校では講演をして義勇軍の志願者集めに一役買い、義勇軍の慰問にも出かけている。
そして少なくとも一人の子どもの運命を変えてしまった。
田河先生は、戦争のプロパガンダに積極的に加担したのだろうか。
私の中で「のらくろ」は不思議な漫画だ。
小学生の頃、学校の図書室にあった「のらくろ」シリーズを読んでいる。子どもながら言論統制の厳しい時代というのは知っていたので、のらくろみたいなキャラクターを描いて取り締まられることはなかったのかなと不思議に思った。また日中戦争のプロパガンダのような作品もあり、戦時下で仕方なかったのかな、とも思っていた。
田河先生はどのように戦争に向き合っていたのだろうか。
自伝『のらくろ一代記』(1991年、田河水泡・高見澤潤子共著、講談社)は執筆している途中で亡くなっており、関東大震災以降は妻が書き継いでいる。
妻によると、軍からは「のらくろ」の連載をやめて軍に協力するように言われたらしい。また慰問に行った先で義勇軍の少年たちが置かれた境遇を知り、ずっと気にかけていた。ただ残念ながら、満洲の小学校の講演でどんなことを話したのかはわからない。
あの時代は、あらゆる人、あらゆる物が総動員された。「のらくろ」もその一つだったのだろう。